「連合」と民進党を問う

  労働組合のナショナルセンター「連合」。
 総評や同盟、中立労連などが合同して、1989年に結成された。約700万人の組合員を擁する日本最大の労働組織である。(会長:神津里季生。組合員数約686万人。連合H.Pより)
その連合は、国政選挙や主な首長選挙、地方選挙では「民主党」を支援してきた。

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     (連舫・民進党代表)      

 ここで、民主党(現・民進党)の足跡をおさらい風にたどっておきたい。
 1980年代後半から「リクルート事件」など〝政治とカネ〟をめぐる汚職が相次ぎ、後藤田正晴氏や小沢一郎氏らは「小選挙区制」と「政党交付金」の導入による政治改革を求めた。
 1993年、宮沢喜一内閣の政治改革四法案が否決され、小沢・羽田氏らは内閣不信任案に賛成して自民党を離党。同年の解散総選挙では、細川護熙・元熊本県知事率いる「日本新党」が大躍進、後に民主党の主要メンバーが多数当選した。いま話題の小池百合子も日本新党公認で当選し、政治生活のスタートを切っている。
 
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     (細川護熙・元首相)

 この選挙で自民党は大敗して野党に転落し、小沢氏らは7党1会派による「細川連立政権」を樹立したが、一年後に崩壊。鳩山由紀夫氏は「新党さきがけ」を結成、小沢・羽田氏らは「新進党」を結成し、これに社会党の一部が合流して「民主党」の源流となった。

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     (小沢一郎・元新進党党首)

 その後、新進党は解党していくつもの小政党が乱立、結果、1998年に新「民主党」が結成された。2000年、総選挙では新「民主党」が127議席(前回95議席)を獲得して、「二大政党制」の到来を予測させた。(私も、この選挙で比例区当選した)
 この時期、長年、社民党を支持してきた労働組合の大半は「民主党」支持にまわり、衰退の道を歩む。(当ブログ9/30付け)

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     (鳩山由紀夫・元首相)

 2009年、解散総選挙では、「政権交代選挙」鳩山代表率いる民主党が308議席獲得という〝なだれ〟的勝利を果たし(過去最高)、比例票でも政党名としては史上最高の2984万票という票を得た。
 2012年、民主党政権は、「政治とカネ」や「普天間問題」などで国民の信頼を失い、同年12月、野田内閣の総辞職で野党に転じた。
この民主党政権の時の大失態は、国民に今なお強く焼き付いている。

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     (神津里季生・連合会長)

 私がここで問題にしたいのは、最大の支持母体「連合」の対応なのだ。象徴的なのは「新潟知事選」に際しての連合の方針である。
 電力総連を擁する連合・新潟は、自・公推薦で原発推進の候補者を支援した。これを受けて民進党は「自主投票」とした。結果は、野党共闘の候補に敗れたのだった。

 「3.11福島第一原発事故」を境に、国民の原発に対する不信・不安はこれまでになく大きくなった。〝原発神話〟は完全に崩れ去ったのである。
 今年5月に起こった熊本の大地震で、そうした不安は一層深刻なものになった。

 こうした状況に際して、肝心の電力総連はどんな対応をしたであろうか?
電力会社や原発内部で働きながら、日頃より「内部チェック」した形跡はゼロに等しい。むしろ、会社と一緒になって「原発再稼働」を推進してきたのだった。
 もし、しっかり内部チェックをしていたら、あれほど酷い事故はもっと抑えられていたはずだと思う。

 来年早々の通常国会で冒頭解散、2月総選挙は現実味を帯びてきた。いまのままでは、安倍自民の圧勝となり兼ねない状況だ。
 

石橋湛山が岸信介首相に宛てた「私信」

 石橋湛山の岸信介宛て「私信」が見つかった(2015年8月19日)との記事が興味深い。サンデー毎日(2016年10月30日発行)に掲載された、その内容を抜粋しておきたい。
 石橋湛山といえば、戦後日本の米国支配に抗い、自主独立を模索した自民党良識派の源流と言われる元首相である。

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 石橋氏が首相指名を受けて自ら組閣した56年末のこと、「ある一人の人」が石橋氏の提出した閣僚名簿をみて、「この名簿に対して只一つ尋ねたいことがある、それはどうして岸を外務大臣にしたかということである。彼は先般の戦争に於て責任がある。その重大さは東條(英機)以上であると自分は思う」と語った、という。

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 石橋氏は恐縮し「百方辞を盡して諒解を」求めたところ、「かの一人の人」はそれ以上の追求はしなかったという。
 石橋氏は、岸氏宛ての私信の中で、この話を明らかにした上で、石橋氏が首相就任後にすぐに病気に倒れ岸氏がその後継首相となったことにも触れ、「かの一人の人は何と考えられたかとひそかに申訳なく思っている。そこに今度の條約(安保改定)問題である。(中略)かの人をして重ねて心配をさせることのないようにと願うのである」として、新条約締結を延期するよう求めた。
 この記事の筆者・倉重篤郎氏(毎日新聞専門編集委員)は、「かの一人の人とは、文脈からして昭和天皇以外には想定されにくい。昭和天皇だとすれば、閣僚人事に自らの意見を述べたということを、憲法との整合性はどうなるか」、疑問は尽きない。
 私信を発見したのは、増田弘・立正大特任教授で湛山研究の第一人者だ。

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 この「私信」を椎名悦三郎官房長官に手渡したのは、当時石橋氏の秘書であった中島昌彦氏である。
 「かの一人の人」について、岸信介研究の第一人者である原彬久氏や「昭和天皇実録」を連載中の保阪正康氏は、「昭和天皇以外に考えられない」と語っている。
 石橋氏の孫で石橋湛山記念財団代表理事の石橋省三氏は祖父をこう語っている。「総理を辞めてから1年間は静養し、書斎にこもることも多かった。三木武夫さん、宇都宮徳馬さん、石田博英さん、池田勇人さんとか、時々相談に来る人もいました」。

 56年ぶりに日の目を見たこの私信。なぜ石橋氏は、天皇発言を引用する諌言を行ったのか。「東條以上の戦争責任者」という言葉の意味するものは何なのか。次号で私信の背景に切り込む、とのことだ。

「55年体制」と社会党の政策を振り返る

 先の参議院選挙(7月)の結果をみると、一人区での「野党共闘」の成果は一定あったものの、「一強・安倍政権」に対峙しうる野党の姿は当分見えてきそうにない。
誕生間もない民進党は、人気の高い連舫が新代表になったが、先行きは不透明だ。
臨時国会が始まり(9/26)、来年の通常国会で冒頭解散、2月総選挙との情報が飛び交っている。
かつて、野党第一党だった社会党も、いまや風前の灯火。何を今ごろと一笑に付されそうだが、あえて「55年体制」下の社会党の「政策」や同党凋落の原因などについて振り返っておきたいと思う。

   「55年体制」となれ合いの「国対政治」

 1955年、左・右に分裂していた社会党が再統一し、保守側は自由党と日本民主党が合同して「自由民主党」を結成して、「55年体制」と呼ばれる時代が始まる。
その前年に労働組合のナショナルセンター「総評」が結成され、平和四原則(全面講和、軍事基地反対、中立、再軍備反対)を掲げて、社会党に対して政策・人材・組織・財政面で絶大な影響力を持った。社会党が、いわゆる「総評政治部」といわれた所以である。

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 歴代の自民党政権は、社会党の最大支援母体である総評を〝怒らせない〟ことを心掛けて、野党との「国対政治」に腐心したという。
 一方の社会党は、改憲を阻む三分の一議席を確保することに安住して、政権獲得の意欲はまったく見られなかった。
 国対政治の〝歴史〟は古く、佐藤栄作(元首相)などはとくに国労出身者の落選議員への「手当」や再就職の世話など面倒をみた。国鉄一家で妥協してやっていた。「社会党には落選者の面倒をみる力がなかったからね」(「佐藤栄作日記」より)。
 〝乱闘スタイル〟もいわばパフォーマンスで、大事な防衛法案でも一回(国会を)見送って、二年に一回通ればいいという雰囲気になっていた。(「政治とは何か~竹下登回顧録」より)

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 国対政治の象徴的存在は、金丸信=田辺誠の親密な関係だろう。そうした状況のもとで、故・竹下登首相は何かにつけて、「自民党は社会党の主張を3年後に取り入れて政策に生かした」と言って憚らなかった。
この点に関する記事(2本)がとても興味深いので、長文になるが「参考資料」として文末に掲載しておいた。
 また、竹下は村山元首相とは同世代意識が強く、「なんとなく気が休まる仲」だったという。「村山さんは〝社労三人衆〟の一人で、総理のときに社労関係だけは答弁書を持たないで答弁していた。一番答弁書が必要なのは為替レートだね。全然わからんわけだ」。(「竹下登回顧録」より)

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 一方、村山は国対委員長を引き受けるにあたって次のように語っている。「当時国体は、夜の料亭を舞台にした『密室の』国対政治だと、悪の権化のように言われていた」。「私を国体に推薦した人たちの要望に応えて、密室の国対政治はやめる。会議はできるだけ昼間に院内で行う、という原則をたてた」。(「『村山談話』とは何か」より)
 村山は幸いまだ元気なので、大分を訪ねて詳しく「裏話」を聞いてみたいものだ。

  〝護憲〟社会党の国会論戦

 結党いらい社会党の看板は「護憲」であった。実際、当時の国会では、政府の外交・防衛政策をめぐって、いわば「九条論戦」が激しく交わされた。
 自衛権を巡る「戦力」や「交戦権」。自衛隊創設に係る「装備」「核兵器保有」「武器輸出」。日米安保改定を巡る「極東の範囲」「事前協議」「核持ち込み」。沖縄返還を巡る問題など多岐にわたる。
当時の社会党には、――岡田春夫(北海道)・横路節雄(北海道)・黒田寿男(岡山)・戸叶里子(長野)・飛鳥田一雄(神奈川)・楢崎弥之助(福岡)・石橋政嗣(長崎)。――などの〝安保五人男〟あるいは〝安保七人衆〟と称される論客が揃っており、今よりもはるかに密度の濃い論戦が戦わされた。

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 とくに、1965年、岡田議員の「三矢研究」の極秘文書の暴露は政府・与党を揺さぶった。翌1966年には、石橋政嗣が非武装中立論を実現するために自衛隊を国民警察隊に改組する「石橋構想」を発表し、1980年には「非武装中立論」を発刊し30万部のベストセラーとなった。
 しかし、護憲、非武装中立という理念をどう具体化するのか。残念ながら社会党内では、肝心の自衛隊のあり方について「自衛隊を認知する議論」だとしてタブー視され、議論が深まることはなかった。

    社会党衰退とその原因

 「60年安保闘争」をはじめ戦後の労働運動を牽引した総評の転機は、「スト権スト」であった。
 1975年11月、公労協は三公社五現業のスト権を求めて1週間のストに突入した。しかし、成果はまったく得られず、やがて公共企業体の民営化、総評解散、社会党解体の道を歩むことになった。組合の指導部には、ハト派の三木首相だから何らかの誠意を示すだろうという思い込みがあったようだ。
 「自分に何の相談もなくいきなり『スト中止の条件』を作ってくれと言われたが、ただちに断った。このことがとても悔やまれる」、と石橋(当時、書記長)は述懐している。(「『五五年体制』~石橋政嗣回想録」より)
つまるところ、「国対政治」に委ねるいとまもなかったということだろう。
 1994年、細川連立政権のもとで「小選挙区制度」が導入されて、社会党の衰退は避けられないものとなった。
 さらに、同年7月に自民・社会・さきがけによる「村山連立政権」が誕生した。これを機に社会党内部で新党結成の動きが本格化し、1996年1月に「社会民主党」に党名変更。同年9月末に「民主党」が結成され、連合など主だった労働組合は民主党支持にまわり、社民党の内部崩壊は決定的になった。
 2016年の参議院選挙を経た現在、社民党は国会議員4人(衆院2人、参院2人)という政党要件に満たない微小政党に転落してしまった。
 そんな社民党にとって残された「遺産」は地方組織だが、高齢化と財政難であと5年と持つまい。
 同党最強の大分県連合に属する村山は数年前、「もう社民党は限界じゃ。安倍政治に対抗しうるリベラル結集に全力を注ぐべきだ」と言っている。
 しかし、参院選を総括する都道府県代表者会議(9/9)では、「解党・民進合流論」や「統一名簿」に批判が集中し、野党共闘の見直しと社民党独自路線への回帰が叫ばれて、お先真っ暗の状態だったようだ。
 参議院では、生活の党と統一会派を組んで予算委員会での質疑権を確保している。衆議院でも統一会派を組もうとの生活の党の提案を、「社民党の名前が消える」との理由で拒否したというから、身の程知らずもいいところだ。
 まず、社民党と生活の党が合流し民進党内の旧社会・リベラルグループを糾合して、「野党再編」を進めるべきではないか。社会民主主義の理念と政策を実現するための窮余の策と思う。国民から見放されてからでは遅いのだ。
(文中、敬称略)

<添付資料①>
揺れ動く政治の行方は 国正武重・早野透編集委員対談
                                       (1994/07/26 朝日新聞)

 自民、社会、新党さきがけ連立政権が成立、内外を驚かせたと思ったら、村山富市首相が社会党の自衛隊、安保政策の劇的な転換を打ち出した。なぜ日本政治はかくも揺れ動くのか、どこへいくのか。国正武重、早野透の両編集委員で話し合った。
 早野 村山・社会党首相が先の臨時国会での代表質問の答弁で「自衛隊は憲法の認めるものである」といった。そして日米安保堅持、日の丸、君が代の国旗、国歌としての定着……。
 国正 新聞記者として社会党を三十年近く見てきて、腰が抜けんばかりに驚いた、そこまで踏み切るとは。唐突過ぎるな。それにしてもベルリンの壁が崩壊した、冷戦後で変わったと一くくりにして片づける筋合いのものなのか。
 早野 村山氏は、政権というものに自分の身の丈を合わせようと一生懸命だ。ナポリでの主要国首脳会議(サミット)でもアメリカに心配をかけないようにと、ばかに負い目を持っているみたいだった。まあこれで、社会党も外相も防衛庁長官もやれるということだろう。社会党が今後もあればだが。
 国正 村山さんは、人にやさしい、安心できる政治といったが、自分を総理大臣にしてくれた自民党に限りなくやさしい政治だね。一夜にして、トップダウンで党内論議の過程が不明なままに百八十度変わるというのは、不安な政治だ。苦労人だから、誠実な人柄だから、あるいは、権謀術数に遠い人だからということでは、弁解にはならない。
 早野 安保と自衛隊の現実を容認する社会党内の動きは、長い間苦心しながら少しずつ積み重なってきていたから、ある意味で必然の流れともいえる。それにしても、社会党が担ってきた「戦争への罪悪感」、戦後史に非常に価値があったと思うんだけれども、こんな形で区切りがついたという感慨がある。
 国正 護憲といえば社会党。その旗印のもとに、国民も集まってきた。それが、憲法改正という道を阻んできた。なぜ冷戦後の世界で、非武装中立の政策的役割も終わったといったことになるのかね、ほんとに。
 早野 砂川闘争や内灘闘争、ナイキ基地訴訟での自衛隊違憲判決だとか、そういう運動の中で社会党に共鳴した人には、虚脱感がある。いまさら村山さんの転換をけしからんとかいう元気はないようだが。
 ○社党にとって解党への道か
 国正 社会党が原理原則を失ったという点では、昨年夏の総選挙惨敗で連立政権へ参加したのが決定的だったね。九月の党大会で、国民もなるほどといえる舞台回しをやれるのかどうか。政権中枢に入ったはいいが、社会党そのものは解党への第一歩、「死出の旅」に踏み込んだという気もする。
 早野 ただね、戦後五十年間、社会党ご苦労さんという感じもする。旧西ドイツの社民党が三十何年も前に方針転換をしたのに比べ、日本社会党は遅れているといわれ続けた。それでも、憲法という金看板にしがみついてきた。自衛隊の海外派遣をしないとか、非核三原則とか、村山さんが列挙した、その成果は素直に聞いてあげていい。
 国正 代表質問で、野党が新政権は野合だと攻め立てていたが、これは目くそ鼻くそのたぐいだ。品の悪い言葉でお返しすればね。自社の核融合が行われたという方が、大きいんじゃないか。いずれ自民党、社会党という政党名もなくなる。政界再編での一方の極が生成されようとしているのではないか。
 早野 去年の夏から政局を引き回した新生党代表幹事の小沢一郎氏がいう「改革派と守旧派」という対立軸によれば、自民党も社会党も一緒くたに守旧派だ。その自社連合も、さすがに細川政権以来の改革路線を反映せざるを得ない。自社の仲介役は穏健改革派の武村正義新党さきがけ代表だということもある。自社連合も単なる反動というより別のステージに上がってきた。そう考えると今度の出来事も依然、小沢再編シナリオの延長線上、といえる。
 国正 しかし、三十八年間温かい飯を食べてきた自民党が一年足らず冷や飯を食っただけでいたたまれなくって、何が何でも政権だ、という要素が大きい。河野洋平自民党総裁があえて村山氏をかついだ最大の理由はこれだろう。社会党も、一年足らず温かい飯にありついた思いから、宿敵であるはずの自民党と手を組んだ。相手選ばずだ。
 早野 小沢氏は政策協議で何であそこまで社会党を追い詰めたんだろう。小沢氏だって、やっぱりマジョリティーを持たなければ政治はやっていけないのだから、厳格主義に過ぎる。それで、社会党を追いやったら、がらっと社会党が変わっちゃう。小沢さんが追い詰めたから、社会党も化けちゃったともいえる。
 ○自社の「悪習」、野党が監視を
 国正 竹下登元首相がいったように、五五年体制下で自民党は社会党の主張を三年後あるいは五年後に包み込んで、政策に生かした。福祉、弱者救済、社会的公平の経済規制とかだ。自社というのは融通無碍(むげ)だった。それを国対政治の中で取引してやってきた。その自社政権が、長期安定をもくろむ。野党は、いまさら死んだ子の年を数えても始まらんよ。
 早野 ある意味で小沢さんたちにしっかりしてもらわなきゃね。自社というのは表で対立、裏で手を結んでいたという関係だから、ほっとけば、かつての族議員だとか利権だとかいう悪習に染まる。村山さんという包み紙がビリッと破れると中は汚物、ではたまらない。何のための改革路線だったのか。細川内閣に七〇%もの支持を与えた国民の意思に反する。その監視役としての機能を野党が果たせないのでは困る。
 国正 野党は小沢氏―市川雄一公明党書記長の「一・一ライン」に昔日の力はなく、創価学会の対応も微妙だろう。日本新党の細川護煕氏はあの政権投げ出しからして未熟な政治家という見方を否めない。海部俊樹元首相も一夜にして転ぶという、その程度の人間にこの国を預けていたのかという声が出ているね。社会党があそこまで転換すると、民社党の存在価値はあるのか。なお看板たりうるのは、羽田孜氏くらいか。
 早野 自民党の梶山静六氏が、小選挙区は結局、一強一弱になっちゃう、二大政党が競って政権交代するというようにならんのじゃないかといっている。片方がばかに強くなっちゃって、あとはちょびっと。前は、「小沢党」が大きくなると思っていたら、今度は逆の感じだ。
 国正 自社の選挙協力も地方レベルでは簡単に手を組めると思えないけど、野党はせめてなるべく早く一束にならないと対抗できない。政権側は総選挙を先延ばしすると言っているんだけれども、勝てる見込みが出てくれば打って出るよ。
 早野 しかし、このまま選挙となると、社会、民社が与野党に分かれて連合に無理がくる。やっぱり「社民リベラル」という形をつくり直して、自民、新生・公明の両勢力に対抗しようという三極論がよみがえってくるかもしれない。
 ○保守二極より三極対立望む
 国正 保守二極の権力闘争より三極の方がいい。社会党があそこまで変われば、日本政治の翼賛体制化の方が心配だね。日本共産党という一つの核があるけれども、木星にぶつかったすい星みたいなものだからなあ。前の選挙で社会党は「非自民」政権を訴えたのだし、細川首相退陣も永田町的なかけひきだった。過去一年を清算するために、小選挙区の区割りができたら、早く選挙して国民の声を聴くべきじゃないかね。
 早野 それが正論かな。村山氏が一刻の政治空白も許されないとかいっているのは、選挙先延ばしの間に小沢氏たちの活力をさらにそごうということだろう。これからの政局は、選挙の時期をめぐる争いになる、きっと。
 国正 激しい政治ドラマの前に有権者は非力のように見えるけれども、安っぽい演技でバカにしていると確実にしっぺ返しを受ける。村山富市という政治家の人物を見てくるだろう。
 早野 かつて三木武夫元首相がいっていた「国民を恐れよ」という気持ちが、最近とみに薄れている感じもする。「おやおや、どういう人かな、村山さんは」という感じもある。
 国正 最高権力者の座に浮かれているところもうかがえる。よし、おれがこの歴史的な転換の主役だ、という勢いが、村山氏の国会答弁の際の、あの水の飲み方を見ていてもわかるよ。

<添付資料②>
特集――自民党半世紀(6)万年与党×万年野党の国会運営、国対政治なれ合い招く。
                                                (2009/10/05 日本経済新聞) 

強行採決・審議空転…筋書きどおり 不明朗な野党懐柔 裏取引も横行
 自民、社会両党の二大政党制への期待を担ってスタートした「55年体制」は社会党の低迷で自民党の1党優位体制となり、国会は万年与党と万年野党のなれ合いの場と化した。与党から野党へカネが動く不明朗な「国対政治」は自民党全盛時代の名残である。(敬称略)
 1958年の警職法改正案、60年の日米安保条約、65年の日韓基本条約の際の強行採決では、与野党議員が本気で殴り合い、負傷者まで出た。後に自民党で最も有力な国会対策委員長となる金丸信は60年の安保国会の強行採決の際、清瀬一郎衆院議長のボディーガード役だった。当時のニュース映画には清瀬を議長席から引きずり降ろそうとする社会党議員を制して清瀬を必死で守る若き日の金丸信の姿が映し出されている。
 強行採決の度に本気の殴り合いをしていては与党議員も野党議員も身が持たない。転機が訪れたのは68年に田中角栄幹事長――園田直国対委員長の「直角コンビ」が国会運営の主導権を握り、円満な国会運営を旗印に徹底的な社会党懐柔策に乗り出してからである。自民党は「話し合い」「根回し」などと称して社会党など野党の国対幹部や衆院議院運営委員会の野党理事への接待攻勢に出た。
 高級料亭でどんちゃん騒ぎの宴会、自民党が野党議員にわざと負ける料亭賭けマージャンなどの風評が立つようになり、自民党の国会対策費は田中幹事長時代に膨れあがったといわれる。こうした「人間関係」の積み重ねの結果、表面だけは勇ましい強行採決も実質的には「なれ合い」となり、採決の前日までに与野党が入念な筋書きを書いて演ずるパフォーマンスとなった。
 「政治とは何か―竹下登回顧録」(講談社2001年)によると「長谷川峻さんが国鉄の特別委員長か何かをやって、値上げ法案を通すときには、前の日に乱闘の練習をしたりしてね、おおらかなものですよ。
 強行採決のときには野党議員が一人だけパーッと出てくんですよ。動議を出して、パーッと出てくる人は他の人が委員長に怪我をさせないように守るために出ているようなものですね。野党ですけれども。実際は委員長を守るために出て行くんです。平場ではわからん人がいるから」。
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 野党が審議を拒否して国会が空転しても国対や議運の与野党のパイプは作動し続け、連日のように与野党国対幹部が高級料亭で顔を合わせ、いつ審議を再開するか、審議再開のきっかけを何にするかを話し合った。審議拒否も大抵の場合は一種のなれ合いである。重要法案の成立には億単位のカネが与党から野党に流れるとの憶測が絶えなかった。
 政務の官房副長官を経験したある政治家によれば、それまでの慣例に従って野党の某国対幹部にカネを持ってあいさつに行ったところ「前の政権より額が少ない。桁(けた)を間違えたのではないか。顔を洗って出直してこい」と怒鳴られたという。
 竹下前掲書には次のような記述もある。「そんなことで情が移りましたから、その野党の方々全部とはいいませんがほとんどの方々には、お辞めになってから顧問に就職する会社を紹介しました。
 ほんとうにそれも佐藤(栄作)さんにならったんですよ。佐藤さんは『あれはどうしておるかな』と言うんですよ。国労出身者の社会党の人が辞めてから、生活に困るようなことをしてはいかんと。それを僕にやらせるんです。それで癖がついたわけですね。だから、どこで聞きつけてくるのか、全逓を辞めた人の分も頼むとかいうようなことになっていました。
 下平正一(国労議員)君、これも亡くなりました。『おい、下平に聞いてみてくれ。今年の国労大会は札幌であるはずだ』、佐藤さんはそんなことを知っているんですね。『きみ、何人落選しているか、下平に聞いて、手当をしておいてくれ』とも言う。20万円ぐらいですけれどもね。11人落選していたので、その人たちの元に下平さんに持っていってもらう」
 自民党がそこまで社会党など野党に至れり尽くせりのサービスをするのは、自民党は万年与党、社会党は万年野党という役割が固定していたからである。社会党に少しでも政権奪取の可能性があったり、そうした意欲が多少でもあれば、不明朗な国対政治は起こりえなかったはずである。
 国対政治は自民党の金権体質が野党までものみ込み、万年野党が堕落していく姿を端的に示していた。
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 自民党の有力者があらゆる手練手管を尽くして野党を懐柔・籠絡(ろうらく)したのは、単に国会運営を円滑に運ぶという目的だけではなく、野党と太いパイプを持つことは自民党内の権力闘争を勝ち抜く上でも大きな力になった。田中角栄、竹下登、金丸信といった人たちはそうした代表的な政治家であった。
 国対政治の横行によって、国会では与野党間の裏取引に注目が集まるようになり、委員会や本会議における政策論争や審議内容はさほど重視されず、そういう意味で国会審議の形骸化をもたらした。実際の審議時間より空転した時間の方がはるかに長い国会もしばしばだった。
 重要な政府答弁や法案の具体的な根回しは多くの場合、官僚が担っており、国会でも官僚主導の色彩が濃かった。国対政治の全盛期に共産党は与野党折衝の場から排除された。これは共産党だけがなれ合いの国対政治の枠外にいたことを物語っている。
 93年の細川非自民連立政権の誕生によって国対政治は事実上、幕を下ろした。野党が政権をとることがありうるという事実が明白になった以上、不明朗な国対政治が成り立つ余地はなくなった。国対政治は過去の遺物になったが、その後、国会における政策論議や審議内容がレベルアップしたかどうかは疑問である。
ポイント 実務者間での決着と使い分け。社会保障など妥協利益分配の側面も
 自民党と社会党との間で、イデオロギー対立があった時代の国会運営は安保・外交問題や治安問題でしばしば与野党が激突した。竹下登著「証言・保守政権」(読売新聞社91年)によると「与野党がどんなに激突を繰り返しても国会には議運委という話し合いの窓口が残されており、議運委でまとまらないときは国対委が乗り出す。(69年)通常国会のような異例づくめの国会運営が続くと、与野党ともそれに慣れてしまい、審議再開の交渉も案外なごやかに行われるようになった。『今後、自民党は強行採決を慎む、野党は審議拒否をしない』という約束文書が交わされて一件落着となる。私は何枚書いたか覚えていないほどだ。
 当時でも自民党が強行採決に訴える場合は事前に議運委、国対委のルートを通じて野党側に連絡しておくという暗黙の了解があった。私が記憶しているかぎりでは、自民党が本当に抜き打ち採決をしたのは(65年の)日韓条約の衆院本会議と(69年の)大学法案の参院本会議の2回だけだったはずである」。
 なれ合い強行採決の典型は74年通常国会の靖国神社法案である。同年7月の参院選を控えて自民党は遺族会など支持団体向けに衆院を通過させたという実績を残したい。社会党など野党は靖国神社法案の成立を体を張って阻止したことを有権者にアピールしたい。そうした与野党の思惑が重なって「衆院で強行採決、参院で廃案」という筋書きの下、衆院内閣委員会で派手な強行採決が行われた。
 こうしたイデオロギー絡みのテーマでは表面的に激しい対立が続いたが、社会保障や医療保険問題では自民党と社会党など野党間で実質的な話し合い協議も行われた。67年の国会で健康保険法改正案について自民、社会両党首脳の間に妥協が成立したが、この妥協に社会党内で激しい反発が出て、当時の佐々木委員長、成田書記長が辞任に追い込まれる事件が起きた。
 この事件を踏まえて、自民党と社会党の間に医療保険や社会保障の問題については両党の実務者間で交渉して妥協を探る方法が模索された。
 「健康保険については、しょっちゅうネゴ(ネゴシエーション)をやっておりました。保険制度なんていうのは、社会党があったからできたとも言えます。社会党が『竹さんには困る』と言ったから『おまえさんらが言ったことを3年後にやればちょうど時勢にあっていいから、おまえさんは先取りして困るというけれど、おれはいっぺんも先取りしたことはない、いつも後取りをしている』と言った。これは二大政党の良さだったのかもしれません」(「政治とは何か―竹下登回顧録」)
 社会党は毎年公務員の給与を引き上げる給与法の改正にも熱心だった。与野党なれ合いの国対政治は野党を通じた労組への利益配分という側面も有していた。

米国による〝安倍降し〟が始まった?

 「米国による〝アベ降し〟が始まったのじゃないか」--今朝、唐突にある友人から電話があった。

     16.8.17朝日・核の先制不使用、首相が反対
     (朝日新聞 8月17日付)

 今月17日、「安倍首相が米太平洋軍司令官に、核の先制不使用政策に反対だと伝えた」との新聞報道があった。(4日後に安倍首相は否定しているが)
報道の源は米国のワシントンポスト紙だ。同紙はウォーターゲート事件をスクープして一躍有名になった。

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     (航空機「トライスター」)

 田中角栄・元首相が「ロッキード事件」で逮捕され(76年)、それがもとで脳梗塞となり亡くなった。--戦後最大の疑獄となったこの事件は「コーチャン証言」という米国発情報だった。角栄は〝トラ(米国)の尾を踏んだ〟と指摘された。米国の頭越しに日中国交正常化を図ったことを指す。

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     (サンデー毎日 02年6月2日号)

 今回の米紙報道は、安倍政権とバックの日本会議が密かに「日本の独自核武装」を狙っているとの懐疑を抱いた米国の画策ではないか、と言うのだ。
 安倍首相は元々「独自核武装」が持論で、私が議員時代に大きな週刊誌沙汰にもなったものだ。
 韓国でも最近、北朝鮮のミサイルに対抗すべく「独自核武装」論が増えている。

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 全くあり得ない話しではないと思う。ある友人という人物は、あらゆる分野を研究している実績があり、単なる思いつきではない。
米国の「9.11テロ事件」の首謀者とされたウサマ・ビン・ラディンだって、元々は米国が援助して旧ソ連と戦わせ、用済みになったらテロ事件の首謀者だとして殺されたのだった。

     英国
     (英国の特殊部隊)

 昨日報道された「各国の特殊部隊」(TBS系)では、最も莫大な利益をあげているのは米国の軍需企業だと詳しく報道されていた。
 例えば、ISの連中に資金を与えて世界各地でテロを起こすように仕向けるのは朝飯前だ。イスラム過激派によるテロ対策と称して、莫大な利益を得ることができるという訳だ。
 安倍政権の行方をこういう視点からも見ていく必要がありそうだ。

〝リベラル〟結集の野党再編と戦略部門の確立を!

 参院選の結果が判明した後、自民党の戦略・広報部門はどんな顔ぶれなのか知りたかった。8月2日付の朝日新聞で「政治とメディア」という特集記事があった。
 小口日出彦氏――パースペクティブ・メディア社の経営者で、09年~13年の間「情報参謀」として自民党のメディア戦略に携わった。今回の参院選でも、党幹部から何度か助言を求められたという。

 自民党の情報戦略

 小口氏は「テレビやネットから集めた情報を用いた分析で、世論が政治をどう見ているかを示すことができる」とアピール。
以後、自民党は小口氏がつくる分析リポートをもとに、党本部で情報分析会議を毎週開いて、広報戦略を練り上げたという。
 自民党は、10年秋からネット情報の収集分析も開始。13年の参院選では、党や立候補予定者に関するネットでの書き込みを分析・監視するなどITを活用した。また、候補者にタブレットを配って、演説で取り上げるテーマなどを細かく助言したという。

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 ずいぶん以前、中選挙区制下で自民党の派閥が幅をきかした時代、総裁選などでライバルを蹴落とすのに週刊誌を使ったものだと聞いたことがある。
 私が議員時代、直に経験があるのは辻元清美議員の「秘書給与問題」を巡ってである。当時、鈴木宗男議員を「疑惑の総合商社」と厳しく追及していた辻元議員を、自民党の重鎮で鈴木氏の親分である野中広務議員が、「タダでは済まさん!」とTVで凄んでみせた。
 実際、その後、「週刊新潮」が辻元議員のことをかなりデタラメに報道して、議員辞職に追い込んでしまったのだった。
(※今回の都知事選で、鳥越俊太郎候補に対して「週刊文春」が「女性問題」を報道したのも、同様の汚い手口であったように思う)

     16.8.2朝日・民進代表選、うごめく党内 - コピー

 ところで、資金力の圧倒的差があるとはいえ、民進党など野党の戦略・広報はあまりにも貧弱すぎるのではないか。
岡田克也・代表辞任に伴う民進党の代表選を巡り、「野党共闘」の是非を問うているようでは、次期衆院選も野党敗北は必至だろう。
 野党の中核であるべき民進党は、前原誠司・細野豪志氏や長島昭久氏、江田憲司氏(旧維新の党)など〝改憲派〟が多く、この状態で「政権交代」など無理な話しだ。

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 社民党や生活の党なども含めて「リベラル」結集のための野党再編が不可欠だと思う。その上で、自民党に負けない戦略・広報部門をしっかり確立すべきだと思う。
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生年月日 1947年8月7日
住  所 長崎県佐世保市
学  歴 佐世保北高等学校
     卒業(66年)
     佐賀大学農学部農
     学科中退(68年)
職  歴 佐世保地区労書記
       (68年)
     佐世保地区労事務
     局長(94年)
政 治 歴 衆議院議員
     (2000年・1期
      社会民主党)