〝異色の皇族〟三笠宮崇仁さまのご逝去に思う

  昭和天皇の末弟、三笠宮崇仁さまが27日、亡くなられた。
 皇族のことは不勉強でよく知らなかったが、三笠宮(以下、敬称略)は日中戦争の現地で日本軍の行動を厳しく批判し、また戦後は「建国記念日」制定に強く反対された異色の皇族であったことを知った。
 新聞や週刊誌、TVなどのメディアはいずれも、そうした〝リベラルな皇族〟ぶりを詳しく報道している。――その要点を少し書いておきたい。

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――まず、戦争をどうとらえていたか。
 三笠宮は、日中戦争下の昭和18年(1943年)「支那派遣軍総司令部」の参謀として、南京に駐在。そこで、将校に対して書かれた冊子が、「支那事変ニ対スル日本人トシテノ内省」。当時は言論弾圧下なので、皇族である自分があえて発言すると書いている。
 「支那派遣軍は日中戦争の本質の認識や、解決への努力が足りない」。「満州事変・支那事変の主な原因と責任は日本現地軍にある」。「日本は戦闘に勝っても戦争に勝ったとはいえない。蒋介石を抗日に追いやったのは主に日本側に責任がある」。「日本軍の略奪、強姦、良民の殺傷、放火等」と次々に指摘し、戦争中から満州事変以降の日本の軍事行動に対する強い批判を、一貫して持っていた。(元宮内庁参与である三谷太一郎・東大名誉教授の話しより)

     三笠宮、内モンゴルで

――戦争終結、戦争責任、新憲法について。
 1945年8月12日、昭和天皇が戦争終結への協力を求めた皇族会議の席で、三笠宮は陸軍の反省を強く要望。その後、阿南惟幾陸軍大臣が宮さまに降伏の翻意を懇願したが、「陸軍は満州事変以来大御心にそわない行動ばかりしてきた」と応じなかった。
 1946年2月27日の枢密院本会議で天皇退位の必要を示唆する発言をした。
同年6月8日の本会議でも、「満州事変以来日本の表裏、言行不一致の侵略的行動については全世界の人々を極度に不安ならしめ、かつ全世界の信頼を失っていることは大東亜戦争で日本がまったく孤立したことで明瞭である。従って将来国際関係の仲間入りをするためには、日本は真に平和を愛し絶対に侵略を行わないという表裏一致した誠心のこもった言動をしてもって世界の信頼を回復せねばならない。憲法に明記することは確かにその第一歩である」。

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     (朝日新聞 10/28付)

――「紀元節」復活の動きについて。
 2月11日が「神武天皇即位の日」とする紀元節復活運動に対して、三笠宮は歴史学者の立場から学者の会合や論文で反対を表明した。
 「歴史研究者として、架空の年代を国の権威をもって国民におしつけるような企てに対してあくまで反対」と表明。「昭和15年に紀元2600年の盛大な祝典を行った日本は、翌年には無謀な太平洋戦争に突入した。すなわち、架空な歴史を信じた人たちは、また勝算なき戦争を始めた人たちでもあったのである」(文芸春秋59年1月号)。

――「生前退位」と皇室典範について。
 三笠宮とじっくり会話を交わし、「昭和史最後の証人」だと述べるノンフィクション作家・保阪正康氏が(奥平康弘著「『萬世一系』の研究」を参考にしつつ)「サンデー毎日」で短期連載中だ。少し引用しておきたい。

 秩父宮、高松宮、三笠宮の3人の弟宮は、敗戦後の日本社会で、皇室の民主化に率先して動いていた。とくに三笠宮が積極的で、新しい皇室典範案に自らの考えを示し、「生前退位」を訴えていることがわかった。
 新しい皇室典範案である「新憲法と皇室典範改正法案要綱(案)」は、枢密院の審査にかけられ顧問官たちに配布されたが、黙殺されたようだ。

 三笠宮は、「大日本帝国憲法と旧皇室典範がセットになって、大日本帝国下の天皇制をつくりあげてきたのだが、これからは新しい憲法とそれにふさわしい皇室典範がセットになる形を採るべき」と訴えている。
 そして、新しい憲法のもとで皇室典範の改正を行うとするならば、せめて7点については憲法の精神を汲みとらなければならないとして、――国民主権の原則、天皇における国政的権能の欠如、国事行為における内閣の助言と承認、法のもとの平等、華族性の廃止、婚姻の自由と婚姻関係における平等、皇室財産の国有化を挙げている。

     赤坂御用地を散策する三笠宮ご夫婦
     (15年。赤坂御用地を散策する三笠宮ご夫婦)

 「譲位の問題」について三笠宮は、新しい皇室典範に「退位の自由」がないことに強い疑問を呈している。いわば終身在位はきわめて残酷な制度であり、憲法18条に違反しているのではないかとの見方である。
 奥平康弘・東大名誉教授は、「吉田茂首相の皇室典範案の提案理由と保守的な憲法学者らの主張は、天皇という個人的存在が憲法の設定した制度のために犠牲になることを当然の前提にしている点で共通である」、と述べている。
 こうした(奥平の)見方の原点は、三笠宮の視点が出発点になっているのである。

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     (95年、品川区フォークダンス協会の催しで踊る三笠宮)

 なんともすごい皇族がいたものだ。長男の故・寛仁の著書によると、「大学への通勤は、車でなく山手線で。学生食堂ではうどんを食べる。勉強好きで、家族とスキーに行ってもひとりで原書を開く」。
 また、フォークダンスや社交ダンスに親しみ、日本レクレーション協会の名誉総裁などを務めた。

     孫娘の承子・典子・絢子
     (14年8月 軽井沢。孫娘の高円宮承子さん・典子さん・絢子さん)

 軍部などにまつりあげられた皇室が戦争の原動力になる。その危うさを誰よりも知っていた現代史の証人がまた一人去った。
 心よりご冥福をお祈りしたい。  合掌
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生年月日 1947年8月7日
住  所 長崎県佐世保市
学  歴 佐世保北高等学校
     卒業(66年)
     佐賀大学農学部農
     学科中退(68年)
職  歴 佐世保地区労書記
       (68年)
     佐世保地区労事務
     局長(94年)
政 治 歴 衆議院議員
     (2000年・1期
      社会民主党)