終戦直後の佐世保を振り返る

 先日、フェイスブックで知人になった方の亡きお父さんが、終戦後、外地から引き揚げてきたのは佐世保の「南風崎」だったとの記述があった。
 そこで、せっかくだから、終戦直後の佐世保の様子を振り返ってみた。「占領軍が写した終戦直後の佐世保」と「佐世保の歴史~市制百周年記念」を参考にした。
焼け野が原の市街地
 (焼け野が原となった市街地)

 軍港・サセボは、終戦直前の「大空襲」と直後の占領軍上陸(米軍を「進駐軍」と呼んだ)と大陸や南方からの引揚げ・復員が特徴的だ。
 大空襲は、45年6月28日午後11時50分過ぎ、141機のB-29が大量の焼夷弾を投下。遺族会調べによると、当日の犠牲者数は1,198人死亡、罹災者60,743人(全人口の27%)、家屋全焼12037戸・半焼69戸(全戸数の35%)であった。

上陸する進駐軍
 (前畑に上陸する海兵隊のロビンソン准将)
市街地を行進する進駐軍
 (市街地を行進する進駐軍)

 日本への占領軍の進駐は、中国・四国地方には英軍、その他の地方は米軍であった。佐世保には、第五水陸両用軍団と第五海兵師団が進駐し、第五艦隊の一部が入港した。占領軍の進駐兵士数は、沖縄を除く全土で約45万人、九州全体で7万4千人、内佐世保には5万4千人であった。この写真集は、米国防総省・陸軍・海兵隊の提供によるもので、沖縄・福岡両県との三部作の一部で、収録写真は空襲から戦後復興まで190枚に及び、実に刻銘かつ貴重である。

浦頭・引揚第一歩の地
 (浦頭・引揚第一歩の地の石碑)
 浦頭に上陸する引揚者
 (浦頭に上陸する引揚者)

 「終戦時海外にいた日本人は、軍人350万人、一般邦人310万人、その大半が昭和22年暮れまでに故国の土を踏んだ。」(長崎県の戦後史『激動20年』より)。
 九州では博多と佐世保が主力引揚げ港となり、佐世保港には朝鮮、中国、南方方面からの引揚げ輸送船が入港した。「浦頭」に上陸した引揚者は検疫を受け、身体中にDDTを吹き付けられた。その後、収容所となった針尾海兵団の兵舎で数日を過ごし、「南風崎駅」から満員の引揚げ列車に乗り、故郷へと向かった。(※森繁久弥や加藤登紀子も「浦頭」への引揚げ者である。)
 また、「浦頭」は、終戦とともに母国に引き揚げる朝鮮・中国・台湾、沖縄・奄美へと送り出す送還船の出発基地でもあった。(「佐世保の歴史~市制百周年記念」より)
 
検疫を受ける引揚者
 (DDT消毒を受ける引揚者)
南風崎駅
 (南風崎駅で列車を待つ引揚者)

 ところで、こうした悲惨な大空襲や苦難に満ちた引揚げの体験を偲ぶことはあっても、その「前史」としての大陸への侵略や植民地支配による被害者(中国・朝鮮などアジアの人々)の凄惨、過酷な実態を省みることは完全に欠落している。軍港・サセボが大陸侵略の拠点であったにも拘わらずである。長崎県史や佐世保史も同様だ。
 この〝負の遺産〟は、こんにち国際社会で孤立しかねない政治の「陥穽」となっているのではないだろうか。

朝鮮向けの物資を積み込んだLST
 (朝鮮向けの補給物資を積み込んだLST)

 終戦後、佐世保は『平和都市宣言』(50年1月)を行い、住民投票では投票90%・賛成97%であった。同年8月には、『旧軍港市転換法』も公布施行された。
 しかし、同年6月、朝鮮戦争が勃発して、佐世保は再び「軍港」への道を転げ落ちていくことになる。
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生年月日 1947年8月7日
住  所 長崎県佐世保市
学  歴 佐世保北高等学校
     卒業(66年)
     佐賀大学農学部農
     学科中退(68年)
職  歴 佐世保地区労書記
       (68年)
     佐世保地区労事務
     局長(94年)
政 治 歴 衆議院議員
     (2000年・1期
      社会民主党)