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DATE: 2018/10/16(火)   CATEGORY: 原発問題
原子力船「むつ」入港阻止闘争から40年を振り返る
 原子力船「むつ」入港阻止闘争から40年(10/16)。
 今年は米原子力空母「エンプラ」寄港阻止闘争から50年だった。
大きな節目の年である。もう記憶のあちこちに空白があるのはやむを得ない。

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  (長崎新聞2018年10月17日付)

 「むつ」(約8千トン)が、青森県の沖合で放射線漏れ事故を起こしたのは1974年。この時点で廃船処理していれば何事もなかっただろう
。 

  「むつ」出力試験・臨界

 「むつ」を受け入れる港は全国のどこにもなく、結局、辻一三・佐世保市長(当時)が受け入れを表明。その見返りにSSK(現・佐世保重工業)の救済や長崎新幹線の佐世保経由などを政府に求めた。 
 久保勘一・長崎県知事(当時)は、『核封印方式』による佐世保入港を提案した。要するに、原子炉に触れることなく原子炉をコンクリートで覆うというもので、およそ「修理」にはほど遠い工事である。

  「むつ」遮蔽・改修工事

 佐世保地区労や社会党は県評と共に総評や社会党本部に働きかけて、全国的な反対闘争態勢をつくった。
  「むつ」入港に対しては、県評傘下の組合に1000円カンパを募り、船外機付きボート50隻で「海上闘争」を準備し、「むつ」を囲む闘いはマスコミから〝木っ端船団〟と呼ばれたが、全国的にも例がなかった。豪州やニュージーランドをはじめ世界でも報道されたものだった。

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  (現地闘争本部の撮影)

  「むつ」入港反対の条例制定運動も全国的に数例しかない運動だった。市内全域で条例制定のための市議会開催を求めて署名活動を展開した。
  開催に必要な署名数(有権者の50分の1)は直ちに集まった。開かれた市議会では、市庁舎の廊下を組合員や市民が座り込んで埋め尽くし、議場の傍聴席は溢れるほどだった。

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  (反「むつ」条例をつくる会提供)

  採決では条例案が否決されたものの、運動の意義はきわめて大きかった。この闘いは、長崎県内での「脱原発」運動の先駆ともなった闘いとなった。

  ところで、原子力船「むつ」を巡る政府の真の狙いは、原子力潜水艦の保有に向けた「舶用原子炉」の開発にあった。亡き高木仁三郎氏や藤田祐幸氏が詳しく指摘していた。

  「むつ」関根浜に係留

  形ばかりの「修理」が終わると、1988年「むつ」はに回航されて関根浜港(青森県)を新定係港とした。
  私は現地闘争本部の指示によりむつ市まで赴き、反対運動を続けていた青森の皆さん方と交流を深めたものだった。

  装いも新たな「むつ」

   やがて、「むつ」は廃船の運命をたどることになった。1995年に原子炉を撤去して、翌年、海洋地球観測船「みらい」に転身した。
  「むつ」の建造費用は約70億円であったが、漁業補償や廃船処理費などで総額1000億円以上を費やしたのだった。
    高速増殖炉「もんじゅ」が、1兆円以上の経費をつぎ込んだあげく「廃炉」の運命となったが、「むつ」は20年以上前にその前例を示していたのである。


         (上記4枚の写真:日本原子力研究開発機構・青森研究開発センター)
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