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FC2USER537587ATX

Author:FC2USER537587ATX
今川正美のブログへようこそ!

生年月日 1947年8月7日
住  所 長崎県佐世保市
学  歴 佐世保北高等学校
     卒業(66年)
     佐賀大学農学部農
     学科中退(68年)
職  歴 佐世保地区労書記
       (68年)
     佐世保地区労事務
     局長(94年)
政 治 歴 衆議院議員
     (2000年・1期
      社会民主党)


命・平和・人権を詠む詩人

 今月の天声人語に「平和」と「命」「人権」に関する短歌・俳句が二日続いた。(2/22、2/23)

     金子兜太

 22日は、98歳の生涯を終えた俳人・金子兜太さん。
 死と隣り合わせの戦場・南洋トラック島。海軍中尉だった金子さんは、「みんな気持ちが暗くなるから、句会をやって慰めてやれ」と上官から言われて、将校や軍属の工員たちが階級に関係なく句を批評しあった。
 やがて敗戦を迎え、捕虜生活を経て復員する船のなかで詠んだ。<水脈(みお)の果て炎天の墓碑を置きて去る>。航跡の向こうに残した仲間への鎮魂だった。
 季語や型にとらわれない作風だといい、<曼殊沙華どれも腹出し秩父の子><原爆許すまじ蟹かつかつと瓦礫あゆむ>などの句がある。

       18.2.20朝日・不妊強制、関連資料を公表

 23日は、歌人・小島ゆかりさんの句を紹介しながら、強制的な不妊手術の理不尽さを問うている。
 <身の奥にまだ開けられぬ一通の手紙あり遠く産月おもふ><いましばし言葉をもたぬをさなごに青き樹のこゑ洌(きよ)き水のこゑ>

 こうした子を持つ喜びへの道筋を奪う。本人の意思と関係なく。
知的障害などを理由に強制的な不妊手術が施されていた問題。60代の女性が国に謝罪と慰謝料を求め、全国で初めての訴訟を起こした。
 1996年まで続いた「優生保護法」の下、1万6千人以上の男女が手術を受けたという。「不良な子孫」の出生防止が掲げられ「育児能力がない」なども理由とされた。
 16歳で手術をされた70代女性の話し。――知能検査を受けさせられ、翌年、内容を知らないまま手術を受けた。結婚したが、離婚した。「子どもを産めないことに引け目があった」という。

      18.2.20朝日・不妊強制、関連資料2

 国が謝罪しない理由は「当時は適法だった」という。あまりにもおぞましい限りだ。
同様の仕打ちを「ハンセン病患者」も受けている。
 いったい、国は憲法が示す「基本的人権」をどのように理解しているのか、甚だ疑わしい。
 国は昔も今も、兵士や自衛官を「人的資源」とよんできた。単なる〝モノ〟として捉えて戦場に送り出し、その命を〝消費〟してきたのだ。
 人の命は地球より重いのではなかったのか。
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故・野中広務氏と中川智子さん

 先月26日に亡くなられた野中広務さん。強面の顔と弱者に寄り添うハト派と評価も様々だ。
細川護熙・連立政権の立役者である小沢一郎氏を「悪魔」と罵倒した。(「自・自・公」連立政権に際しては「悪魔に土下座してでも」と懇願した)
 また、橋本龍太郎政権下の「駐留軍用地特別措置法」改正(1997年)に際しては、新進党との「保・保連合」による圧倒的多数の可決を策した梶山静六官房長官への怒りをあらわにした。
 さらに、後見人を任じた加藤紘一・元幹事長を「加藤の乱」で葬る側に回った。小泉政権下で党総裁再選を阻もうとして敗れ、青木幹雄参院幹事長を名指しで指弾して政界を引退したのだった。

      野中広務氏

 一方では、自らの戦争体験をもとに、自民党ハト派の論客として晩年まで護憲や言論の自由の大切さを説き続けた。
「戦前の私たちは知らないうちに教育され、戦争に突入した。私はこうした民族性に恐怖を感じる」と著書に記した。
 『野中広務・差別と権力』の著者・魚住昭氏(ジャーナリスト)によると、ハンセン病訴訟で小泉政権が控訴を断念した背景には、野中氏の尽力があったという。「ハンセン病患者の原告らが、野中氏を『痛みの中に自分の身を置ける人だ』と絶賛していた。虐げられた人の痛みが分かる最後の政治家だった」と悼んだ。
 野中氏と何度も会い食事をする仲だった稲嶺恵一・元沖縄県知事は、「沖縄の大変な状況を何とかしたいと憂えていた。本土と沖縄との心の断絶を心配し、一緒にやっていけるような雰囲気をつくりたい、話していた」と語る。

      675307cc[1]

 前述した「駐留軍特措法」の衆院可決に先立って、委員長報告の最後に、野中氏は「・・・古い苦しい時代を生きてきた人間として、今回の審議が、どうぞ再び大政翼賛会のような形にならないように若い皆さんにお願いをしたい」と異例の発言に及んだのだった。
 この件に関しては、朝日新聞のザ・コラム「限りない優しさのバトン」(2/15付)が興味深い。
 記事の主眼は、当時、自・さ・社連立政権下で社民党の1年生議員だった中川智子さんのことにあった。
――衆院本会議での野中演説に感動した中川さんが感動のあまり、野中事務所に乾燥糸こんにゃくを手土産に訪ねて行ったいきさつの要点が書かれている。
 自民党の大幹部に物おじせず「今日の野中さんの発言に涙が出ました。あなたみたいな政治家に会えてよかった」と言った。議員宿舎に帰ると郵便受けに「これから困ったことがあったら、何でも相談しなさい」とのメモが入っていた。

       宝塚市長[1]

 その後、与党の実力者に声をかけて巻き込み、「ヤコブ病患者救済」や「身体障害者用補助犬法」を成立させた。
 203年の選挙で落選後、宝塚市長選に出馬する時、野中氏が「やりなさい」と背中を押しくれ、応援にも来てくれたというエピソード。
 筆者の秋山訓子さんは言う。「2人の政治家に共通するのは、弱い立場にある人に寄り添う限りない優しさと平和への強い思いだ。根底には人を信じるがあり、その力は伝播していく。政治の基本だと思う」。

 そういえば私が当選した直後の「加藤の乱」の時、中川さんや辻元さんらが加藤氏に「辞めないで!」と必死に説得したという記憶がある。
 自らの経験に基づいて沖縄問題に気を砕き、懐の深い政治家が今の自民党には居そうにないのが残念だ。

石牟礼道子さんの死去を悼む

 一人の作家が亡くなって、これほど大きな記事になったのは稀ではなかろうか。各方面から惜しむ声が寄せられた。
 エッセイスト・作家の石牟礼道子さんが10日に亡くなられた。享年90歳。

      石牟礼道子16.5

 1969年に「苦海浄土 わが水俣病」を出版して評判が高まった。
 まず、朝日新聞の社説(2/12)を引用してみたい。
――石牟礼さんが告発したのは、公害や環境の破壊にとどまらない。社会に深く横たわる「近代」の価値そのものだった。
――恵みの海とともにあった人々の質素だが穏やかな暮らしが、いかに奪われたか。成長を最優先し欲望をかきたてる政治、科学への信頼、繁栄に酔い、矛盾に目を向けぬ人々。
 患者のかたわらで克明な観察を続けた。「東京にゆけば、国の在るち思うとったが、東京にゃ、国はなかったなあ」(苦海浄土、第2部)。

――権力は真相を覆い隠し、民を翻弄し、都合が悪くなると切り捨てる。
 石牟礼さんが大切にしたのは歴史的な視点だ。公害の原点ともいうべき「芦尾鉱毒事件」を調べ、問題の根を探った。
 「水俣」後、公害対策は進み、企業も環境保全をうたう。だが、効率に走る近代の枠組みは根本において変わっていない。

――石牟礼文学には西南戦争や島原の乱に材をとった魅力的な作品も多い。通底するのは民衆への深い共感と敬意である。
 どん底に身をおいても、人は希望をもち、隣人を思いやることができる。石牟礼さんの確信は、今の時代を生きる私たちにとって、一つの道しるべといえるのではないか。

      th[4]

 石牟礼さんは、十数年前から患うパーキンソン病のため、筆を執ることがままならない。そのため、50年来の友人で評論家の渡辺京二さんが口述を書き取り、執筆を支えてきた。
――不知火海。漁師さんは『光凪』と呼んでおりました。「魚(いお)は天のくれらすもの。人間が好きにできるものではありません」
――患者さんたちは病気になっても、水俣を豊かにした会社(チッソ)をどこか誇りにして『親さま』と思っていた。親さまの親身な言葉を求めたのに、会社はお金のことしか語らなかったのです。
――2011年、東日本大震災と福島原発事故に際しては「福島と水俣で起きたことの背景にあるのは、お金が一番の生きがいであり、倫理になってしまっているということです」。
 経済のものさしだけで価値を測ることに慣れきった私たちに、お金によらない価値を人々が共有した豊饒な世界が、かつて確かに存在したことを、言葉の力によって教えてくれている。
――水俣病の公式確認から今年で60年を迎えました。でもこの60年の背後には、はるかに分厚い時間の層があったことを、まず思い浮かべてほしいと思います。
 『魚(いお)の湧く海』と言われた不知火海のほとりで、天の恵みを必要なぶんだけ分けてもらっていた人々の、何代にもわたる暮らしが積み重なった時間の層です。
(朝日新聞の「評伝」2/11より)

      img347.jpg

 「苦海浄土」は、池澤夏樹さん編集の「世界文学全集」に日本人作家の長編として唯一収録された。何度も石牟礼さんを訪れた池澤さんは追悼文を朝日新聞に寄せている。
 この他、瀬戸内寂聴さんや加藤登紀子さんをはじめ多くの人々から石牟礼さんの死を惜しむ声が寄せられている。
 2013年、天皇・皇后両陛下が胎児性水俣病患者とお忍びでの対面が実現したのも、石牟礼さんの、「50歳を超えてもあどけない顔の胎児性患者に会ってやって下さいませ」との皇后さまへの手紙がきっかけとなった。

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      (石牟礼道子さんと原田正純先生)

 ところで、長女が熊本学園大学時代に「水俣病」に関心を抱いたのは、同大の原田正純先生の影響が大きいと言っていた。卒論は「水俣病」についてだった。
 私は、『苦海浄土』と聞くと一人芝居の砂田明さんを思い出す。京都に在住の砂田さんは『苦海浄土』に導かれてご夫婦で水俣に移り住み、やがて一人芝居『天の魚(いお)』を全国各地で演じられた。

      一人芝居「天の魚」

 佐世保でも3度ほどお招きして演じていただき、大好評だった。それがきっかけで友人と水俣を訪れて、砂田さん宅に泊めていただき水俣病患者の皆さんと懇談したのは、今から40年ほど前のことだ。
 砂田さんは93年に亡くなられた。(享年65歳)その砂田さんに師事された川島宏知さんが『天の魚(いお)』を演じておられるようだ。

 心よりご冥福をお祈り申し上げたい。   合掌

〝初孫〟と迎えた「節分の日」

  「節分の日」。初めて、先月生まれたばかりの孫と迎えることができた。格別の喜びでいっぱいだ。
 本当は、先月、初孫誕生のことを書きたかったのだけど、ママとなった長女がブログやフェイスブックなどに写真を載せたり書いたりしないでと注文をつけた。ネット情報は便利だけどリスクもあるので、要注意だと言う。

     EPSON324.jpg
     (28年前。左端が長女)

 生まれたのはとても元気な女児で、安産だった。パパとなった娘の連れ合いは、買ったばかりのビデオカメラで出産の様子を丹念に撮っていた。
 長女が生まれた時、私は出勤中で出産に立ち会えず、ビデオカメラも持ってなかったので一眼レフカメラで撮ったものだ。
 夫の実家にとっても〝初孫〟で、とても喜んでおられた。

     83年7月、史子の百日祝い
     (1983年7月。百日祝いで祖父に抱かれた長女。)

 亡父が、「〝内孫〟で最初の子だ」と言って、その可愛がりようといったら格別だった。(「外孫」は4人)
その長女が、初めて赤ちゃんを産んだのだから、この上ない感動を覚える。「古稀」となって晴れて「オジジ」と呼ばれる身分となった。
 
 私が大病で入院した時、生存率は5割と言われながら無事に退院して現在があるのは、妻や子どもらの支えと同時に自らの覚悟だった。
 「孫に会うこともなく、この世を去りたくない!」という一心で頑張れたように思う。

       千佳ちゃん、わが家へ1.20
       (初孫を抱く私)

 娘と孫は今月中旬まではわが家で過ごした後、自分のアパート(車で約10分)に戻る予定だ。
 毎朝、孫の可愛い顔を見るだけで楽しい。
 これから、お宮参りや百日祝い、おひな祭り(節句は来年)などお祝い事が続く。
 やがて、首もすわり、這い這いを始めて、立つようになるまで1年も要しないだろう。

  ❝這えば立て 立てば歩め の親心❞

 大きな怪我や病気をすることなく、元気に成長して欲しいと心より願う。
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