「55年体制」と社会党の政策を振り返る

 先の参議院選挙(7月)の結果をみると、一人区での「野党共闘」の成果は一定あったものの、「一強・安倍政権」に対峙しうる野党の姿は当分見えてきそうにない。
誕生間もない民進党は、人気の高い連舫が新代表になったが、先行きは不透明だ。
臨時国会が始まり(9/26)、来年の通常国会で冒頭解散、2月総選挙との情報が飛び交っている。
かつて、野党第一党だった社会党も、いまや風前の灯火。何を今ごろと一笑に付されそうだが、あえて「55年体制」下の社会党の「政策」や同党凋落の原因などについて振り返っておきたいと思う。

   「55年体制」となれ合いの「国対政治」

 1955年、左・右に分裂していた社会党が再統一し、保守側は自由党と日本民主党が合同して「自由民主党」を結成して、「55年体制」と呼ばれる時代が始まる。
その前年に労働組合のナショナルセンター「総評」が結成され、平和四原則(全面講和、軍事基地反対、中立、再軍備反対)を掲げて、社会党に対して政策・人材・組織・財政面で絶大な影響力を持った。社会党が、いわゆる「総評政治部」といわれた所以である。

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 歴代の自民党政権は、社会党の最大支援母体である総評を〝怒らせない〟ことを心掛けて、野党との「国対政治」に腐心したという。
 一方の社会党は、改憲を阻む三分の一議席を確保することに安住して、政権獲得の意欲はまったく見られなかった。
 国対政治の〝歴史〟は古く、佐藤栄作(元首相)などはとくに国労出身者の落選議員への「手当」や再就職の世話など面倒をみた。国鉄一家で妥協してやっていた。「社会党には落選者の面倒をみる力がなかったからね」(「佐藤栄作日記」より)。
 〝乱闘スタイル〟もいわばパフォーマンスで、大事な防衛法案でも一回(国会を)見送って、二年に一回通ればいいという雰囲気になっていた。(「政治とは何か~竹下登回顧録」より)

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 国対政治の象徴的存在は、金丸信=田辺誠の親密な関係だろう。そうした状況のもとで、故・竹下登首相は何かにつけて、「自民党は社会党の主張を3年後に取り入れて政策に生かした」と言って憚らなかった。
この点に関する記事(2本)がとても興味深いので、長文になるが「参考資料」として文末に掲載しておいた。
 また、竹下は村山元首相とは同世代意識が強く、「なんとなく気が休まる仲」だったという。「村山さんは〝社労三人衆〟の一人で、総理のときに社労関係だけは答弁書を持たないで答弁していた。一番答弁書が必要なのは為替レートだね。全然わからんわけだ」。(「竹下登回顧録」より)

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 一方、村山は国対委員長を引き受けるにあたって次のように語っている。「当時国体は、夜の料亭を舞台にした『密室の』国対政治だと、悪の権化のように言われていた」。「私を国体に推薦した人たちの要望に応えて、密室の国対政治はやめる。会議はできるだけ昼間に院内で行う、という原則をたてた」。(「『村山談話』とは何か」より)
 村山は幸いまだ元気なので、大分を訪ねて詳しく「裏話」を聞いてみたいものだ。

  〝護憲〟社会党の国会論戦

 結党いらい社会党の看板は「護憲」であった。実際、当時の国会では、政府の外交・防衛政策をめぐって、いわば「九条論戦」が激しく交わされた。
 自衛権を巡る「戦力」や「交戦権」。自衛隊創設に係る「装備」「核兵器保有」「武器輸出」。日米安保改定を巡る「極東の範囲」「事前協議」「核持ち込み」。沖縄返還を巡る問題など多岐にわたる。
当時の社会党には、――岡田春夫(北海道)・横路節雄(北海道)・黒田寿男(岡山)・戸叶里子(長野)・飛鳥田一雄(神奈川)・楢崎弥之助(福岡)・石橋政嗣(長崎)。――などの〝安保五人男〟あるいは〝安保七人衆〟と称される論客が揃っており、今よりもはるかに密度の濃い論戦が戦わされた。

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 とくに、1965年、岡田議員の「三矢研究」の極秘文書の暴露は政府・与党を揺さぶった。翌1966年には、石橋政嗣が非武装中立論を実現するために自衛隊を国民警察隊に改組する「石橋構想」を発表し、1980年には「非武装中立論」を発刊し30万部のベストセラーとなった。
 しかし、護憲、非武装中立という理念をどう具体化するのか。残念ながら社会党内では、肝心の自衛隊のあり方について「自衛隊を認知する議論」だとしてタブー視され、議論が深まることはなかった。

    社会党衰退とその原因

 「60年安保闘争」をはじめ戦後の労働運動を牽引した総評の転機は、「スト権スト」であった。
 1975年11月、公労協は三公社五現業のスト権を求めて1週間のストに突入した。しかし、成果はまったく得られず、やがて公共企業体の民営化、総評解散、社会党解体の道を歩むことになった。組合の指導部には、ハト派の三木首相だから何らかの誠意を示すだろうという思い込みがあったようだ。
 「自分に何の相談もなくいきなり『スト中止の条件』を作ってくれと言われたが、ただちに断った。このことがとても悔やまれる」、と石橋(当時、書記長)は述懐している。(「『五五年体制』~石橋政嗣回想録」より)
つまるところ、「国対政治」に委ねるいとまもなかったということだろう。
 1994年、細川連立政権のもとで「小選挙区制度」が導入されて、社会党の衰退は避けられないものとなった。
 さらに、同年7月に自民・社会・さきがけによる「村山連立政権」が誕生した。これを機に社会党内部で新党結成の動きが本格化し、1996年1月に「社会民主党」に党名変更。同年9月末に「民主党」が結成され、連合など主だった労働組合は民主党支持にまわり、社民党の内部崩壊は決定的になった。
 2016年の参議院選挙を経た現在、社民党は国会議員4人(衆院2人、参院2人)という政党要件に満たない微小政党に転落してしまった。
 そんな社民党にとって残された「遺産」は地方組織だが、高齢化と財政難であと5年と持つまい。
 同党最強の大分県連合に属する村山は数年前、「もう社民党は限界じゃ。安倍政治に対抗しうるリベラル結集に全力を注ぐべきだ」と言っている。
 しかし、参院選を総括する都道府県代表者会議(9/9)では、「解党・民進合流論」や「統一名簿」に批判が集中し、野党共闘の見直しと社民党独自路線への回帰が叫ばれて、お先真っ暗の状態だったようだ。
 参議院では、生活の党と統一会派を組んで予算委員会での質疑権を確保している。衆議院でも統一会派を組もうとの生活の党の提案を、「社民党の名前が消える」との理由で拒否したというから、身の程知らずもいいところだ。
 まず、社民党と生活の党が合流し民進党内の旧社会・リベラルグループを糾合して、「野党再編」を進めるべきではないか。社会民主主義の理念と政策を実現するための窮余の策と思う。国民から見放されてからでは遅いのだ。
(文中、敬称略)

<添付資料①>
揺れ動く政治の行方は 国正武重・早野透編集委員対談
                                       (1994/07/26 朝日新聞)

 自民、社会、新党さきがけ連立政権が成立、内外を驚かせたと思ったら、村山富市首相が社会党の自衛隊、安保政策の劇的な転換を打ち出した。なぜ日本政治はかくも揺れ動くのか、どこへいくのか。国正武重、早野透の両編集委員で話し合った。
 早野 村山・社会党首相が先の臨時国会での代表質問の答弁で「自衛隊は憲法の認めるものである」といった。そして日米安保堅持、日の丸、君が代の国旗、国歌としての定着……。
 国正 新聞記者として社会党を三十年近く見てきて、腰が抜けんばかりに驚いた、そこまで踏み切るとは。唐突過ぎるな。それにしてもベルリンの壁が崩壊した、冷戦後で変わったと一くくりにして片づける筋合いのものなのか。
 早野 村山氏は、政権というものに自分の身の丈を合わせようと一生懸命だ。ナポリでの主要国首脳会議(サミット)でもアメリカに心配をかけないようにと、ばかに負い目を持っているみたいだった。まあこれで、社会党も外相も防衛庁長官もやれるということだろう。社会党が今後もあればだが。
 国正 村山さんは、人にやさしい、安心できる政治といったが、自分を総理大臣にしてくれた自民党に限りなくやさしい政治だね。一夜にして、トップダウンで党内論議の過程が不明なままに百八十度変わるというのは、不安な政治だ。苦労人だから、誠実な人柄だから、あるいは、権謀術数に遠い人だからということでは、弁解にはならない。
 早野 安保と自衛隊の現実を容認する社会党内の動きは、長い間苦心しながら少しずつ積み重なってきていたから、ある意味で必然の流れともいえる。それにしても、社会党が担ってきた「戦争への罪悪感」、戦後史に非常に価値があったと思うんだけれども、こんな形で区切りがついたという感慨がある。
 国正 護憲といえば社会党。その旗印のもとに、国民も集まってきた。それが、憲法改正という道を阻んできた。なぜ冷戦後の世界で、非武装中立の政策的役割も終わったといったことになるのかね、ほんとに。
 早野 砂川闘争や内灘闘争、ナイキ基地訴訟での自衛隊違憲判決だとか、そういう運動の中で社会党に共鳴した人には、虚脱感がある。いまさら村山さんの転換をけしからんとかいう元気はないようだが。
 ○社党にとって解党への道か
 国正 社会党が原理原則を失ったという点では、昨年夏の総選挙惨敗で連立政権へ参加したのが決定的だったね。九月の党大会で、国民もなるほどといえる舞台回しをやれるのかどうか。政権中枢に入ったはいいが、社会党そのものは解党への第一歩、「死出の旅」に踏み込んだという気もする。
 早野 ただね、戦後五十年間、社会党ご苦労さんという感じもする。旧西ドイツの社民党が三十何年も前に方針転換をしたのに比べ、日本社会党は遅れているといわれ続けた。それでも、憲法という金看板にしがみついてきた。自衛隊の海外派遣をしないとか、非核三原則とか、村山さんが列挙した、その成果は素直に聞いてあげていい。
 国正 代表質問で、野党が新政権は野合だと攻め立てていたが、これは目くそ鼻くそのたぐいだ。品の悪い言葉でお返しすればね。自社の核融合が行われたという方が、大きいんじゃないか。いずれ自民党、社会党という政党名もなくなる。政界再編での一方の極が生成されようとしているのではないか。
 早野 去年の夏から政局を引き回した新生党代表幹事の小沢一郎氏がいう「改革派と守旧派」という対立軸によれば、自民党も社会党も一緒くたに守旧派だ。その自社連合も、さすがに細川政権以来の改革路線を反映せざるを得ない。自社の仲介役は穏健改革派の武村正義新党さきがけ代表だということもある。自社連合も単なる反動というより別のステージに上がってきた。そう考えると今度の出来事も依然、小沢再編シナリオの延長線上、といえる。
 国正 しかし、三十八年間温かい飯を食べてきた自民党が一年足らず冷や飯を食っただけでいたたまれなくって、何が何でも政権だ、という要素が大きい。河野洋平自民党総裁があえて村山氏をかついだ最大の理由はこれだろう。社会党も、一年足らず温かい飯にありついた思いから、宿敵であるはずの自民党と手を組んだ。相手選ばずだ。
 早野 小沢氏は政策協議で何であそこまで社会党を追い詰めたんだろう。小沢氏だって、やっぱりマジョリティーを持たなければ政治はやっていけないのだから、厳格主義に過ぎる。それで、社会党を追いやったら、がらっと社会党が変わっちゃう。小沢さんが追い詰めたから、社会党も化けちゃったともいえる。
 ○自社の「悪習」、野党が監視を
 国正 竹下登元首相がいったように、五五年体制下で自民党は社会党の主張を三年後あるいは五年後に包み込んで、政策に生かした。福祉、弱者救済、社会的公平の経済規制とかだ。自社というのは融通無碍(むげ)だった。それを国対政治の中で取引してやってきた。その自社政権が、長期安定をもくろむ。野党は、いまさら死んだ子の年を数えても始まらんよ。
 早野 ある意味で小沢さんたちにしっかりしてもらわなきゃね。自社というのは表で対立、裏で手を結んでいたという関係だから、ほっとけば、かつての族議員だとか利権だとかいう悪習に染まる。村山さんという包み紙がビリッと破れると中は汚物、ではたまらない。何のための改革路線だったのか。細川内閣に七〇%もの支持を与えた国民の意思に反する。その監視役としての機能を野党が果たせないのでは困る。
 国正 野党は小沢氏―市川雄一公明党書記長の「一・一ライン」に昔日の力はなく、創価学会の対応も微妙だろう。日本新党の細川護煕氏はあの政権投げ出しからして未熟な政治家という見方を否めない。海部俊樹元首相も一夜にして転ぶという、その程度の人間にこの国を預けていたのかという声が出ているね。社会党があそこまで転換すると、民社党の存在価値はあるのか。なお看板たりうるのは、羽田孜氏くらいか。
 早野 自民党の梶山静六氏が、小選挙区は結局、一強一弱になっちゃう、二大政党が競って政権交代するというようにならんのじゃないかといっている。片方がばかに強くなっちゃって、あとはちょびっと。前は、「小沢党」が大きくなると思っていたら、今度は逆の感じだ。
 国正 自社の選挙協力も地方レベルでは簡単に手を組めると思えないけど、野党はせめてなるべく早く一束にならないと対抗できない。政権側は総選挙を先延ばしすると言っているんだけれども、勝てる見込みが出てくれば打って出るよ。
 早野 しかし、このまま選挙となると、社会、民社が与野党に分かれて連合に無理がくる。やっぱり「社民リベラル」という形をつくり直して、自民、新生・公明の両勢力に対抗しようという三極論がよみがえってくるかもしれない。
 ○保守二極より三極対立望む
 国正 保守二極の権力闘争より三極の方がいい。社会党があそこまで変われば、日本政治の翼賛体制化の方が心配だね。日本共産党という一つの核があるけれども、木星にぶつかったすい星みたいなものだからなあ。前の選挙で社会党は「非自民」政権を訴えたのだし、細川首相退陣も永田町的なかけひきだった。過去一年を清算するために、小選挙区の区割りができたら、早く選挙して国民の声を聴くべきじゃないかね。
 早野 それが正論かな。村山氏が一刻の政治空白も許されないとかいっているのは、選挙先延ばしの間に小沢氏たちの活力をさらにそごうということだろう。これからの政局は、選挙の時期をめぐる争いになる、きっと。
 国正 激しい政治ドラマの前に有権者は非力のように見えるけれども、安っぽい演技でバカにしていると確実にしっぺ返しを受ける。村山富市という政治家の人物を見てくるだろう。
 早野 かつて三木武夫元首相がいっていた「国民を恐れよ」という気持ちが、最近とみに薄れている感じもする。「おやおや、どういう人かな、村山さんは」という感じもある。
 国正 最高権力者の座に浮かれているところもうかがえる。よし、おれがこの歴史的な転換の主役だ、という勢いが、村山氏の国会答弁の際の、あの水の飲み方を見ていてもわかるよ。

<添付資料②>
特集――自民党半世紀(6)万年与党×万年野党の国会運営、国対政治なれ合い招く。
                                                (2009/10/05 日本経済新聞) 

強行採決・審議空転…筋書きどおり 不明朗な野党懐柔 裏取引も横行
 自民、社会両党の二大政党制への期待を担ってスタートした「55年体制」は社会党の低迷で自民党の1党優位体制となり、国会は万年与党と万年野党のなれ合いの場と化した。与党から野党へカネが動く不明朗な「国対政治」は自民党全盛時代の名残である。(敬称略)
 1958年の警職法改正案、60年の日米安保条約、65年の日韓基本条約の際の強行採決では、与野党議員が本気で殴り合い、負傷者まで出た。後に自民党で最も有力な国会対策委員長となる金丸信は60年の安保国会の強行採決の際、清瀬一郎衆院議長のボディーガード役だった。当時のニュース映画には清瀬を議長席から引きずり降ろそうとする社会党議員を制して清瀬を必死で守る若き日の金丸信の姿が映し出されている。
 強行採決の度に本気の殴り合いをしていては与党議員も野党議員も身が持たない。転機が訪れたのは68年に田中角栄幹事長――園田直国対委員長の「直角コンビ」が国会運営の主導権を握り、円満な国会運営を旗印に徹底的な社会党懐柔策に乗り出してからである。自民党は「話し合い」「根回し」などと称して社会党など野党の国対幹部や衆院議院運営委員会の野党理事への接待攻勢に出た。
 高級料亭でどんちゃん騒ぎの宴会、自民党が野党議員にわざと負ける料亭賭けマージャンなどの風評が立つようになり、自民党の国会対策費は田中幹事長時代に膨れあがったといわれる。こうした「人間関係」の積み重ねの結果、表面だけは勇ましい強行採決も実質的には「なれ合い」となり、採決の前日までに与野党が入念な筋書きを書いて演ずるパフォーマンスとなった。
 「政治とは何か―竹下登回顧録」(講談社2001年)によると「長谷川峻さんが国鉄の特別委員長か何かをやって、値上げ法案を通すときには、前の日に乱闘の練習をしたりしてね、おおらかなものですよ。
 強行採決のときには野党議員が一人だけパーッと出てくんですよ。動議を出して、パーッと出てくる人は他の人が委員長に怪我をさせないように守るために出ているようなものですね。野党ですけれども。実際は委員長を守るために出て行くんです。平場ではわからん人がいるから」。
□  □  □
 野党が審議を拒否して国会が空転しても国対や議運の与野党のパイプは作動し続け、連日のように与野党国対幹部が高級料亭で顔を合わせ、いつ審議を再開するか、審議再開のきっかけを何にするかを話し合った。審議拒否も大抵の場合は一種のなれ合いである。重要法案の成立には億単位のカネが与党から野党に流れるとの憶測が絶えなかった。
 政務の官房副長官を経験したある政治家によれば、それまでの慣例に従って野党の某国対幹部にカネを持ってあいさつに行ったところ「前の政権より額が少ない。桁(けた)を間違えたのではないか。顔を洗って出直してこい」と怒鳴られたという。
 竹下前掲書には次のような記述もある。「そんなことで情が移りましたから、その野党の方々全部とはいいませんがほとんどの方々には、お辞めになってから顧問に就職する会社を紹介しました。
 ほんとうにそれも佐藤(栄作)さんにならったんですよ。佐藤さんは『あれはどうしておるかな』と言うんですよ。国労出身者の社会党の人が辞めてから、生活に困るようなことをしてはいかんと。それを僕にやらせるんです。それで癖がついたわけですね。だから、どこで聞きつけてくるのか、全逓を辞めた人の分も頼むとかいうようなことになっていました。
 下平正一(国労議員)君、これも亡くなりました。『おい、下平に聞いてみてくれ。今年の国労大会は札幌であるはずだ』、佐藤さんはそんなことを知っているんですね。『きみ、何人落選しているか、下平に聞いて、手当をしておいてくれ』とも言う。20万円ぐらいですけれどもね。11人落選していたので、その人たちの元に下平さんに持っていってもらう」
 自民党がそこまで社会党など野党に至れり尽くせりのサービスをするのは、自民党は万年与党、社会党は万年野党という役割が固定していたからである。社会党に少しでも政権奪取の可能性があったり、そうした意欲が多少でもあれば、不明朗な国対政治は起こりえなかったはずである。
 国対政治は自民党の金権体質が野党までものみ込み、万年野党が堕落していく姿を端的に示していた。
□  □  □
 自民党の有力者があらゆる手練手管を尽くして野党を懐柔・籠絡(ろうらく)したのは、単に国会運営を円滑に運ぶという目的だけではなく、野党と太いパイプを持つことは自民党内の権力闘争を勝ち抜く上でも大きな力になった。田中角栄、竹下登、金丸信といった人たちはそうした代表的な政治家であった。
 国対政治の横行によって、国会では与野党間の裏取引に注目が集まるようになり、委員会や本会議における政策論争や審議内容はさほど重視されず、そういう意味で国会審議の形骸化をもたらした。実際の審議時間より空転した時間の方がはるかに長い国会もしばしばだった。
 重要な政府答弁や法案の具体的な根回しは多くの場合、官僚が担っており、国会でも官僚主導の色彩が濃かった。国対政治の全盛期に共産党は与野党折衝の場から排除された。これは共産党だけがなれ合いの国対政治の枠外にいたことを物語っている。
 93年の細川非自民連立政権の誕生によって国対政治は事実上、幕を下ろした。野党が政権をとることがありうるという事実が明白になった以上、不明朗な国対政治が成り立つ余地はなくなった。国対政治は過去の遺物になったが、その後、国会における政策論議や審議内容がレベルアップしたかどうかは疑問である。
ポイント 実務者間での決着と使い分け。社会保障など妥協利益分配の側面も
 自民党と社会党との間で、イデオロギー対立があった時代の国会運営は安保・外交問題や治安問題でしばしば与野党が激突した。竹下登著「証言・保守政権」(読売新聞社91年)によると「与野党がどんなに激突を繰り返しても国会には議運委という話し合いの窓口が残されており、議運委でまとまらないときは国対委が乗り出す。(69年)通常国会のような異例づくめの国会運営が続くと、与野党ともそれに慣れてしまい、審議再開の交渉も案外なごやかに行われるようになった。『今後、自民党は強行採決を慎む、野党は審議拒否をしない』という約束文書が交わされて一件落着となる。私は何枚書いたか覚えていないほどだ。
 当時でも自民党が強行採決に訴える場合は事前に議運委、国対委のルートを通じて野党側に連絡しておくという暗黙の了解があった。私が記憶しているかぎりでは、自民党が本当に抜き打ち採決をしたのは(65年の)日韓条約の衆院本会議と(69年の)大学法案の参院本会議の2回だけだったはずである」。
 なれ合い強行採決の典型は74年通常国会の靖国神社法案である。同年7月の参院選を控えて自民党は遺族会など支持団体向けに衆院を通過させたという実績を残したい。社会党など野党は靖国神社法案の成立を体を張って阻止したことを有権者にアピールしたい。そうした与野党の思惑が重なって「衆院で強行採決、参院で廃案」という筋書きの下、衆院内閣委員会で派手な強行採決が行われた。
 こうしたイデオロギー絡みのテーマでは表面的に激しい対立が続いたが、社会保障や医療保険問題では自民党と社会党など野党間で実質的な話し合い協議も行われた。67年の国会で健康保険法改正案について自民、社会両党首脳の間に妥協が成立したが、この妥協に社会党内で激しい反発が出て、当時の佐々木委員長、成田書記長が辞任に追い込まれる事件が起きた。
 この事件を踏まえて、自民党と社会党の間に医療保険や社会保障の問題については両党の実務者間で交渉して妥協を探る方法が模索された。
 「健康保険については、しょっちゅうネゴ(ネゴシエーション)をやっておりました。保険制度なんていうのは、社会党があったからできたとも言えます。社会党が『竹さんには困る』と言ったから『おまえさんらが言ったことを3年後にやればちょうど時勢にあっていいから、おまえさんは先取りして困るというけれど、おれはいっぺんも先取りしたことはない、いつも後取りをしている』と言った。これは二大政党の良さだったのかもしれません」(「政治とは何か―竹下登回顧録」)
 社会党は毎年公務員の給与を引き上げる給与法の改正にも熱心だった。与野党なれ合いの国対政治は野党を通じた労組への利益配分という側面も有していた。

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「現代の名工」今村隆光さんのこと

 「光雲窯」(こううんがま)の今村隆光さんが、2013年度「現代の名工」に選ばれている。

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 今村隆光さんは、20年あまり有田の窯元で、絵付師として花瓶や皿、ときには1m以上の壺などに染付で絵を描いていました。20年ほど前に三川内に戻ってからは、自らロクロも挽き始め、また細かな絵に挑戦し続けています。鯨をモチーフにした器は、豪快さと繊細な筆づかいが同時に堪能できる作品です。(みかわち焼オフィシャルサイトより)

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 私が今村隆光さんと出会ったのは、佐世保地区労結成50周年の記念品として「陶板」を選び、友人に紹介された時だった。(1999年)
 翌2000年、私が衆院議員になり、土井たか子党首に随行して金大中・韓国大統領に会いにいくことになった。
 そこで、献上品として花瓶を贈ることに決めて、今村隆光さんに製作を頼んだのだった。

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 その後、今村さんは「鯨」をモチーフにした作品を次々に製作されている。
 「有田焼」といえば「柿右衛門」が有名だが、有田焼は藍色が濃く、私は淡い藍色の「三川内焼」の方が好きだ。

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 今村さんは、県知事賞をはじめ数々の賞を受賞されているが、「現代の名工」に選ばれるのは各部門でごく限られており、すごい実績だと思う。心より祝福したいと思う。

再処理事業はやめられる!

 また、原発にかんする話題になる。
「再処理事業は中止できる」との記事が載った(朝日新聞 9月10日付)。主張しているのは弁護士の河合弘之さん。

 主張の主な内容は、次のとおりだ。――「六ヶ所村で使用済み核燃料を再処理してプルトニウムと高レベル放射性廃棄物にする工場の建設が進んでいない。」
 「工場は止められない」という最有力の根拠は、98年に青森県、六ケ所村と日本原燃が締結した「覚書」だ。これを根拠に「再処理事業をやめたら、今ある使用済み核燃料を全て各原発に返送せねばならない。しかし、各原発の保管場所は既に満杯に近く、返送受け入れは無理。だから再処理事業は継続するしかない」とする主張だ。
 現に野田政権(民主)はその主張にぶつかって腰砕けとなり、核燃料サイクルの中止を決断できなかった。

     六ヶ所村再処理工場
     (六ケ所村再処理工場)

 しかし、本当だろうか。覚書には「元の原子力発電所に戻せ」とは書かれていない。日本原燃が別の場所を用意すれば良いのだ。電力会社や国は覚書の当事者ではないから返送受け入れの義務はない。
 義務を負う日本原燃は、施設外への搬出ができなければ、損害賠償その他「必要かつ適切な措置」を講ずればよい。損害賠償で資金が不足すれば、国は貸し付けなどの支援をすべきだ。賠償額は巨額になるだろうが、再処理事業を続ける青天井の額に比べればずっと少額で済む。
 また、金銭賠償だけでなく、青森県や六ケ所村に自然エネルギーなどの代替産業の整備が必要で、県民や村民が明るい展望をもって繁栄できるようにするべきだ。

     核燃料サイクル

 ところで、再処理にかかる費用はどれほどだろうか。
 再処理工場の総費用11兆円、放射性廃棄物管理などバックエンド費用を合わせると約19兆円。――六ケ所再処理施設にかかわるコストについて、電気事業連合会(電事連)が公表した(04年1月)金額だ。

 原子力資料情報室(CNIC)で核燃料サイクル問題を担当する澤井正子氏の説明はこうだ。
――もともと公表されていたのは、再処理工場の建設費だけで着工当時7600億円(93年)だったのが2兆1400億円(99年)と膨れ上がった。そして04年の発表で唐突に「19兆円」が現れた。「これほどコストがかさむと思っていなかった電力会社が、『受益者負担』として国民に転嫁するために慌ててはじき出したのでしょう」。

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     (澤井正子氏)

――だが、事業計画自体が六ケ所再処理工場の処理能力は年間800トンで、06年から40年間〝無事故でフル稼働〟する計画だった。
 ところが、稼働原発からは毎年1000~1100トンの使用済み核燃料が発生していた。再処理できず過去の蓄積分と合わせると46年までに3万4000トンが中間貯蔵に回るとはじき出された。その上操業終了以降の再処理や中間貯蔵のコストは算出されていない。

――驚く点はほかにもある。再処理費用が発生する期間の設定が、05年から369年までと実に360年間にも渡っている。「未来に先送りしつつ〝広く薄く〟徴収することにして、現役世代から『負担が重い』との批判をかわすためだろうか」。
 再処理工場の操業可能期間としている40年間で「19兆円」を完済するとなれば、今とは比べ物にならないほど負担が増大するはずだ。

――福島原発事故を受けて、内閣府の原子力発電・核燃料サイクル技術検討小委員会資料(12年6月11日付)に、興味深い試算が載っている。
 使用済み核燃料の「全量再処理」と、再処理せず「直接処分」した場合、それぞれ併存させた場合の3パターンについての費用が計算された。
 直接処分の費用が最も低かった。電力総需要の原子力比35%でも、全量再処理が18兆4100億円なのに対して、直接処分は14兆8100億円だ。

     14.1.11朝日・核燃とプルトニウム - コピー

――直接処分すれば安くなるのは当然で、核燃料サイクルを諦めれば負担を最小限に抑えられる。再処理工場の運転、MOX燃料加工工場、TRU廃棄物のコストが不要となり、19兆円のうち7割を削減できる。
 「もんじゅ」は操業再開のメドが立たず、プルサーマル発電は国民感情が許さない。本格稼働させれば費用が「右肩上がり」で膨らむ。それでも国が「全量再処理」の方針を捨てきれないのは、「核のゴミ」の貯蔵プールとしての役割が欲しいからではないか。

 こんなに矛盾に満ちた「再処理」に係る問題。国民のことなど全く念頭になく、税金を湯水のように使い捨てる国や電力会社に、鉄槌を下したい!

     もんじゅ
     (高速増殖炉「もんじゅ」)

<追記>
 なんと!政府が「もんじゅ」の廃炉も含めた検討に入った――今朝、各社が報道した。20年以上ほとんど運転していない施設に数千億円をさらに拠出することに国民の理解を得るのは難しい、と判断したようだ。

      渕上隆信・敦賀市長
      (「もんじゅ存続」を政府に要請する渕上隆信・敦賀市長)

 福井県や敦賀市は廃炉に猛反発しているが、カネや地域経済よりも県民、国民の命と健康を優先すべきではないか。
 再運転には新規制基準に適合する必要があり、施設の改修などに数千億円かかる見通し。
 いよいよ、核燃料サイクルの破たんが明白となり、原発再稼働を止めて古い原発や活断層沿いの原発から廃炉にしていく局面を迎える。

〝脱原発〟派の首長潰しを許すな!

 新潟県の泉田裕彦知事が8月30日、知事選への立候補を突然撤回した。泉田知事はこれまで、柏崎刈羽原発の再稼働に慎重な姿勢をとり続けてきた。

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     (不出馬を表明する泉田知事)

 撤回の理由として、県が関連する事業に関する船の購入契約トラブルを巡る新潟日報の報道姿勢を挙げた。
 自分が退くことで、「原子力防災を争点化した上で選ばれる知事が誕生して欲しい」との期待を示した。

 知事は、川内や伊方原発が再稼働する中、柏崎刈羽原発について「福島第一原発事故の検証が先だ」と訴えてきた。
 また、「福島事故の検証と総括を続けていく中で、重大な問題が浮かび上がっている」と指摘し、原発の新規制基準は「国際水準に達していない」と批判した。
 住民避難についても「新潟県の場合、どうやって約44万人が2時間で避難できるのか」などと国の指針に疑問を呈した。

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     (週刊金曜日 9月9日号)

 「週刊金曜日」(9月9日号)によると、――「対抗馬の森民夫前長岡市長は高齢で知名度も低く、泉田知事に及ばない」。そこで、「一部の自民党が『新潟日報』と組んで泉田知事へのネガティブキャンペーンを仕掛けたようです。東電も同紙に全面カラー広告を出して援助」したというのだ。
 同じようなケースは原発立地・青森県でも見られた。同県の『東奥日報』は、脱原発派の鹿内博青森市長に対して、第三セクターの赤字問題を執拗に批判し、鹿内市長が辞意を表明した。

 泉田知事は後継指名はしないとの態度だが、是非とも原発再稼働に反対する新知事を誕生させてほしいものだ。

チンドン屋が懐かしい♬

 お~~♬チンドン屋って懐かしいなあ。
60年ほども前、小学校の帰り道によくチンドン屋を見かけて、あとをついて行ったものだ。「今福座」という芝居小屋があって、お小遣いを貯めてはよく観に行ったものだった。
 梅沢富美男みたいな粋な役者がいるはずもなく、田舎回りの三文役者だったが、楽しかったね♬

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 きょうの朝日新聞(9/10)によると、江戸時代後期、大阪の飴売り商人が、鳴り物と売り声で寄席の宣伝を請け負ったのがチンドン屋の始まりらしい。
 戦後、パチンコ店の開業ラッシュで活況を呈したが、テレビの普及や商店街の衰退して約100人ぐらい。
 
     大学生
     (大学生によるチンドン屋)

 ところが最近は、新築マンションやパソコンショップの宣伝、老人施設のイベントや外国人観光客の宴席など、そのパフォーマンスが注目されているという。
 「その事柄に関心のない人も振り向かせるのがチンドン屋の仕事。不況の時代だからこそ感性に訴え、心をつかむ必要がある。ネット広告にはない現場感が私たちの強み」と語るのは、日本最大のチンドン屋「ちんどん通信社」の風見花さん(26歳)だ。

     多賀神社の万灯祭
     
 写真は、多賀神社の万灯祭(滋賀県多賀町)を盛り上げる「ちんどん通信社」の風見花さんら。海外公演も多いらしく、「チンドン屋は世界に誇る日本文化です」だって 💛

安倍政権と「日本会議」ーー近代民主主義を巡る一大決戦

 先の参院選で自・公など与党が改憲の発議に必要な三分の二を確保し、「自分の任期中に憲法改正をやり遂げる」と断言した安倍晋三首相。
 この安倍政権と密接な関係を持ち、憲法改正などの政治運動を展開する草の根右派組織『日本会議』。――20人の閣僚の内13人が「日本会議国会議員懇談会」に名を連ね、約280人前後の国会議員が加盟している。

     2016090411390000.jpg

 とても気になって、「日本会議の正体」(青木理、平凡社新書)や朝日ジャーナル緊急復刊の「激論・島薗VS菅野」などを読んでみた。
 まず、「日本会議の正体」をベースに全体像をスケッチしておく。

 日本会議は97年5月、「日本を守る国民会議」と「日本を守る会」が合流して結成された。国民会議は、財界・政界・学会・宗教界などの代表が集まって結成。守る会は、右派系の宗教団体が中心となって結成され、とくに「生長の家」教祖の谷口雅春が大きく貢献した。
 設立時の基本運動方針では、①皇室の尊崇②憲法の改正、③国防の充実、④愛国教育の推進、⑤伝統的な家族観の重視、に集約される。
会員は約3万8千人、会費収入は年間約3億8千万円。資金面では、神社本庁や明治神宮をはじめ資金潤沢な宗教団体が支えているとされる(推測)。
 
     谷口雅春
     (「生長の家」初代総裁・谷口雅春)

 それにしても、驚いたのは日本会議の事務総長を務めている椛島有三のことだ。日本会議での活動の原点が母校・長崎大での反左翼運動だったという。
 60年安保闘争から全共闘運動へ連なっていく66年、全国の大学は新左翼系セクトの学生たちに席捲されていた。

 ところが、この年10月、長崎大教養部の自治会選挙で、左派学生主導のストライキに反対を唱えて、右派学生の「有志会」が委員長の座を獲得した。主要大学で初めての出来事で、これを主導したのが椛島有三や安東巌であった。
 いずれも生長の家系のサークル「精神科学研究会」のメンバーで、両親や本人が生長の家の熱心な信者だった。
 ちなみに、かつて新右翼団体「一水会」の代表を務め、現在は評論家として活躍中の鈴木邦男も生長の家出身だ。

     日本会議などの幹部
     (日本会議などの幹部。左端・田久保忠衛会長。右端・櫻井よしこ)

 彼らは、それまでの右翼と異なりビラまきや個別オルグなどを地道に展開するなど、全共闘運動から学んだという。
 日本会議が特に力を入れているのが、地方組織の充実化で小選挙区に合わせて300を目標にしている。
 同時に、「日本会議地方議員連盟」を組織して、地方議会への浸透に力を入れている。
「地方から都市へ」という戦略を重視し、まるで毛沢東の「農村から都市を包囲する」という戦略を倣っているかのようだ。

 生長の家が政治連合(生政連)を結成して正式に政界進出を宣言したのが64年8月。ところが83年、突如方針を大転換して、政治とのかかわりを一切断つと宣言した。
理由は、人工中絶反対の考えで優生保護法改正運動を展開したが、自民党の大半がこれに反対したこと、お抱え政治家の玉置和郎との溝が深まったことなどであった。

     みんなで靖国神社お参拝する国会議員の会
     (みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会の尾辻秀久会長ら)

 現在、第3代総裁・谷口雅宣のもとでも、日本会議とは無関係。むしろ昨今は「エコロジー」に力を入れる環境左派の色彩を強め、安倍政権のありようには批判的である。
参院選を目前に控えた今年6月、「与党とその候補者を支持しない」との本部方針を決定した。
――安倍政権は立憲主義を軽視し、原発再稼働を強行し、海外に向かっては緊張を高め、私たちの信仰や信念と相容れない政策や政治運営を行ってきた。
 日本会議の主張する政治路線は、生長の家の信念と方法とはまったく異質のものであり、時代錯誤的である。

     美しい日本の憲法をつくる国民の会
     (「美しい日本の憲法をつくる国民の会」主催の集会)

 14年1月、「美しい日本の憲法をつくる国民の会」の設立総会で、生学連出身の参院議員・衛藤晟一は「安倍晋三内閣は憲法改正のために成立した。最後のスイッチが押されるときがきた」とのエールを送った。
 結成いらい約20年間、地方での「改憲決議」、中央での大規模集会、政府や与党を突き上げる改憲派議員など〝草の根〟的な運動を積み上げてきた日本会議。

 安倍政権の誕生は、「阻止・反対の運動をする段階から価値・方向性を提案する段階へと変化した」(椛島事務総長)というほどに理想的なものである。
 椛島は『祖国と青年』誌にこう書いている。――「このような憲法改正の機会は戦後70年において初めて起こったことであると思えば、歴史的事件が起きているとの自覚に立たなければならない。与えられたチャンスは一度と定め、チャンスを確実にする戦いを進めていきたいと思います。」(05年5月号より)

     安倍首相

 ジャーナリストの青木理によると、「安倍政権的なもの、日本会議的なものを許容する日本社会の変質がある」。「全共連運動などがなくなり、冷戦体制の崩壊があり、社会党や労働組合の衰弱もあった」。
 宗教学の泰斗・島薗進(東大名誉教授)によると、「日本会議はかなり特殊な勢力です。神社本庁も含めて、復古的な思想を持った人たちの集まりです」。「戦前もそうでしたが、停滞期において不安になった人々は、自分たちのアイデンティティーを支えてくれる宗教とナショナリズムに過剰に依拠するようになる。非常に危ういですね」。

 メディアもひどく鈍感になった。「今年5月の伊勢志摩サミットの折、安倍が各国首脳を伊勢神宮へ誘ったことを批判的に捉える報道すら皆無だった。」
 戦後日本の右派をウオッチしてきた『月刊日本』主幹の南丘喜八郎の分析によると、「憲法をめぐる考えひとつとっても、日本会議の内部や周辺には『明治憲法の復元』から『自主憲法の制定』、そして『現行憲法の改正』までいろいろな立場がある。一方、昨年の安保関連法制を解釈改憲で押し切ったことも影響し、憲法改正を支持する世論はむしろ減ってしまったから、現実には憲法改正は相当難しくなっている。改憲がうまくいかないということになれば内部対立が顕在化し、組織が瓦解してしまうことも十分に考えられます」。

 戦後、いや近代民主主義の根本原則そのものを守れるか否か、最後の砦をめぐるせめぎ合いである。
                                         (※文中、敬称は省略)

核廃棄物の管理10万年という「超現実」方針

 先月27日、当ブログに故・藤田祐幸先生の「脱原発論」を詳しく紹介しておいた。
 その内容を裏付けるような事態が相次いでいる。

 一つは、原子力規制委が原発廃炉に伴う制御棒など放射能レベルが高い廃棄物について処分の基本方針を了承した(8/31)。
地震や火山の影響を受けにくい場所で70メートルより深い地中に埋め、電力会社に300~400年間管理させる。その後は国が10万年間、管理するという。
 電力会社の管理期間を「数万年とするのは現実的でない」とし、国による処分は地下300メートルより深い場所で10万年間管理する。

     放射性廃棄物の処分イメージ

 規制委は、冗談が過ぎる。
 人類が生まれたのが約20万年前。400年先まで電力会社が存続しているのか?10万年先に日本政府が、いや地球や人類が果たして存在するのか、絶滅していないか?
 藤田先生は指摘する。――「地下に溶け落ちた炉心の放射能は100年や1000年経ってみても、とうてい手に負えるものではない」。「10万年間管理するというが、その技術と安全性について検証のしようがない」。

 いま一つは、凍土壁の致命的欠陥が露呈したことだ(9/1)。凍土壁で遮蔽された下流のエリアの地下水位が、台風10号による降水量以上に上昇していた。東電は、上流の放射性物質で汚染された地下水が凍土壁を抜けて流れ込んだとみている。
 規制委の外部有識者からは、「計画は破綻している」との指摘も出ている。

     img056.jpg

 誰しも「責任」を負うことができるのは生きている間である。400年先とか10万年先なんて、責任をとりようのない話しではないか。
 政府や電力会社の「超現実的」な方針に愕然とする。あまりにも非常識かつ無責任である!!
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今川正美のブログへようこそ!

生年月日 1947年8月7日
住  所 長崎県佐世保市
学  歴 佐世保北高等学校
     卒業(66年)
     佐賀大学農学部農
     学科中退(68年)
職  歴 佐世保地区労書記
       (68年)
     佐世保地区労事務
     局長(94年)
政 治 歴 衆議院議員
     (2000年・1期
      社会民主党)