桃太郎の鬼退治のお話し
やっぱり池澤夏樹の『終わりと始まり』はおもしろいね。「桃太郎と教科書」という批評(朝日新聞12月6日)は、目から鱗(私の不勉強)だった。
池澤さんが書いた「狩猟民の心」というエッセーが高校教科書「国語Ⅰ」(H10~14年度)で使われたことに、義家弘介・前衆院議員が「子供たちに供するにふさわしくない内容だ」と噛みついた。
まずは、池澤さんの分を紹介する。――<桃太郎の物語。あれは一方的な征伐の話だ。鬼は最初から鬼と規定されているのであって、桃太郎一族に害をなしたわけではない。しかも桃太郎と一緒に行くのは友人でも同士でもなくて、黍団子というあやしげな給料で雇われた傭兵なのだ。更に言えば、彼らはすべて士官である桃太郎よりも劣る人間以下の兵卒として(略)、動物という限定的な身分を与えられている。彼らは鬼ヶ島を攻撃し、征服し、略奪して戻る。この話には侵略戦争の思想以外のものは何もない>
(岡山駅前の桃太郎像)
これに対して義家氏は、<作家がどのような表現で思想を開陳しようとも、法に触れない限り自由である。しかし、おそらく伝統的な日本人なら誰もが唖然とするであろう一方的な思想と見解が、公教育で用いる教科書の検定を堂々と通過して、子供たちの元に届けられた、という事実に私は驚きを隠せない>
ところが、池澤さんと同じことを明治期の偉人・福沢諭吉が言っていたという。諭吉が自分の子供のために書いた『ひゞのおしへ』で、桃太郎のふるまいは<ただただ欲のための仕事にて、卑劣千万>なのだと言う。
もう一つ、新聞の全面広告で何度か見たことがある。鬼の子が泣いている絵の上に「ボクのおとうさんは、桃太郎というやつに殺されました。」というつたない子供の字のコピーがあった。東京コピーライターズクラブの2014年度TCC最高新人賞を受賞した作品だ。
池澤さんは言う。<教育というのは生徒の頭に官製の思想を注入することではない。一つのテーマに対していかに異論を立てるか、知的な反抗精神を養うのが教育の本義だ>
ほんとうに〝目から鱗〟である。
池澤さんが書いた「狩猟民の心」というエッセーが高校教科書「国語Ⅰ」(H10~14年度)で使われたことに、義家弘介・前衆院議員が「子供たちに供するにふさわしくない内容だ」と噛みついた。
まずは、池澤さんの分を紹介する。――<桃太郎の物語。あれは一方的な征伐の話だ。鬼は最初から鬼と規定されているのであって、桃太郎一族に害をなしたわけではない。しかも桃太郎と一緒に行くのは友人でも同士でもなくて、黍団子というあやしげな給料で雇われた傭兵なのだ。更に言えば、彼らはすべて士官である桃太郎よりも劣る人間以下の兵卒として(略)、動物という限定的な身分を与えられている。彼らは鬼ヶ島を攻撃し、征服し、略奪して戻る。この話には侵略戦争の思想以外のものは何もない>
(岡山駅前の桃太郎像)
これに対して義家氏は、<作家がどのような表現で思想を開陳しようとも、法に触れない限り自由である。しかし、おそらく伝統的な日本人なら誰もが唖然とするであろう一方的な思想と見解が、公教育で用いる教科書の検定を堂々と通過して、子供たちの元に届けられた、という事実に私は驚きを隠せない>
ところが、池澤さんと同じことを明治期の偉人・福沢諭吉が言っていたという。諭吉が自分の子供のために書いた『ひゞのおしへ』で、桃太郎のふるまいは<ただただ欲のための仕事にて、卑劣千万>なのだと言う。
もう一つ、新聞の全面広告で何度か見たことがある。鬼の子が泣いている絵の上に「ボクのおとうさんは、桃太郎というやつに殺されました。」というつたない子供の字のコピーがあった。東京コピーライターズクラブの2014年度TCC最高新人賞を受賞した作品だ。
池澤さんは言う。<教育というのは生徒の頭に官製の思想を注入することではない。一つのテーマに対していかに異論を立てるか、知的な反抗精神を養うのが教育の本義だ>
ほんとうに〝目から鱗〟である。
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