懐かしき哉『緑のコタン』

 なぜか、ふとずいぶん昔のラジオ放送のことが頭の隅っこに残っていた。題名は『緑のコタン』、しかし内容はほとんど忘れている。(コタンとはアイヌ民族の「集落」のこと)

     1930年頃のコタン
      (1930年頃のコタン)

 試しにネット検索してみたら、なんとブログに書いている人が数人いた!「遊星王子の青春歌謡つれづれ」「梟の独り言」(私のブログ名とそっくりだ!)「八国山だより」など。
 遊星王子さんの記事を拝借すると――
 放送は昭和37年、私が高校生の時だ。月曜から金曜日まで夕方6時30分までの15分間、押し入れに入ってゲルマニウムラジオで聴き入った覚えがある。

     現在のコタン
     (現在のコタン)

 ドラマの筋書きは、「明治維新のときの函館戦争にまつわる話」「『北海道独立戦争』に破れ、雪と氷の荒野に消えていくアイヌの青年」などとあり、「アイヌの青年をあとにして、日本を脱出する新島襄」の場面もあったようだ。

 主題歌は
「緑のコタン」
 一 波のしぶきと 氷の岩よ
   風も冷たい 東海の
   嵐にむかい まっしぐら
   緑のコタンを 夢にみて
   ああ 若き勇者 勇者はすすむ
   緑 ああ ああ ああ緑のコタン
 二 ほえる狼 手負いの熊よ
   声も届かぬ 原始林
   嵐にむかい まっしぐら
   緑のコタンを 夢にみて
   ああ 若き勇者 勇者はすすむ
   緑 ああ ああ ああ緑のコタン

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 アイヌと言えば、唐突に『カムイ伝』(白土三平作)で「カム~イ!」(アイヌ語で〝神〟の意)と叫ぶどでかい山丈の姿が目に浮かぶ。
 今にして思うと、現在のTVよりラジオの方がはるかに豊かな想像力をかきたててくれるような気がする。
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人形師・辻村寿三郎のこと

 今年もあとひと月を残すだけ。病気を患ってから月日の経つのが早く感じる。
きょう夕方、何気なくTVをつけたらBS朝日でインタビュー「辻村寿三郎」が放送されていた。

          jusaburo_photo_miyajima_2[1]

 今年81歳になる辻村は、人生のほぼ全てを人形作りに捧げてきたという。中国(旧満州)で生まれ、幼い時から人形に興味を抱いた。27歳の時に人形師として独立して、73年NHKの連続TV人形劇「新八犬伝」の人形美術を担当したことで、辻村は人形師としての音異性を得た。また、自ら脚本を書き演出をした人形劇で海外公演を行い、その才能は海外でも高い評価を受けた。

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        (左が蔦信彦)

 インタビュアーはジャーナリストの蔦信彦。広島の爆心地跡で子どもだった辻村が目にした壮絶な風景…、その体験から生まれた一組の人形は彼の原点という。
 また、60年安保闘争に関わり、樺美智子さんが殺されるのを間近で目撃、樺さんがデモ弾圧の警官らに発した「無知の輩!」という叫びが、辻村の生き方そのものを変えたという。辻村は中学までしか出ておらず世間のことに全く無頓着だったと述懐している。

         jusaburo_poster_2011[1]

 一方、作家・三島由紀夫は辻村の人形を高く評価しじっくり話し合う約束だったが、三島が割腹自殺して果て、辻村は絶望の淵に落とされた。
 インタビューは辻村のアトリエ「ジュサブロー館」(東京・人形町)で行われたが、蔦は「ジュサブロー人形は普通の人形と違って、どこか妖しく美しい。それでいてどこかピュア…。まさに変幻自在だ」と評している。
辻村はいまも、このアトリエで創作活動を続けているという。老いてなおその意欲に感心する。

ソマリア派兵から5年、忘れてはならない!

 今月15日、海自の護衛艦「はるさめ」と「あまぎり」がソマリア沖・アデン湾の海賊対策のため、佐世保を出港した。佐世保からは両艦で10隻目となる。

      14.11.17朝日・ソマリアへ出港 - コピー
      (佐世保から出港する「はるさめ」と「あまぎり」)

 ソマリア沖の海賊対策が国際社会で問題視されたのは08年。米軍主導の海賊制圧作戦を許可する国連決議が同年12月採択されるや、それまで慎重だった防衛省は積極姿勢に転じた。

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      (「防衛白書」14年版より)

 翌09年3月、「海賊対処法」の成立(同年6月)を待たず「会場警備行動」(自衛隊法第82条)として護衛艦「さみだれ」と「さざなみ」が呉より出港した。陸・海・空三自衛隊で約580人を派遣し、米国主導の「多国籍連合任務部隊」にも参加している。ジブチには自衛隊初の〝海外基地〟を設置して拠点としている。

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       (「防衛白書」14年版より)

 国際海事局の資料によると、12年以来海賊は激減しているようだ。(グラフ参照)マラッカ海峡では、海上保安庁が東南アジア各国と協力して海賊一掃に成功した。ソマリアでも政治的安定やイエメンも含む沿岸警備隊の強化などが必要だ。
 国会は衆院解散・総選挙も間近だが、この5年間に亘るソマリア派遣(派兵)の総括を徹底すべきである。現在、佐世保では少人数ながら派遣反対の声を上げ続けているが、メディアや平和団体の間ではソマリア問題が殆ど語られていない。〝喉元過ぎれば熱さを忘れる〟では困る。

  ジプチ入港の「さみだれ」   航行中の小型艦艇を確認
(ジブチ入港の護衛艦「さみだれ」)(航行中の小型艦艇を確認)

  任務を終え着艦する「さざなみ」   小火器射撃訓練
  (5555回目の発着艦)  (小火器射撃訓練)

  任務を終え着艦する「さざなみ」   東航護衛を行う「さみだれ」
 (任務を終え着艦する「さざなみ」) (東航護衛を行う「さみだれ」)

 (※ソマリア派遣の主な画像を防衛省ホームページよりまとめて掲載してみた。)

原潜「シードラゴン」初寄港から50年

今月12日は、米海軍の原子力潜水艦(略称:原潜)が初寄港して50年の大きな節目の年である。

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      (初寄港した原潜「シードラゴン」)

 原潜の名前は「シードラゴン」。タツノオトシゴから命名したらしい。原潜としては初期タイプのスケート級で、写真のように現在入港しているロサンゼルス級(涙滴型)とは見かけが違い、搭載兵装も魚雷である。

 シードラゴンの就役は1959年。東南アジアなどで広報活動を続けて、佐世保に初寄港したのが1964年11月12日だった。米国は当初、首都圏の横須賀に入港する予定だったが、閣僚(自民党)や官僚の間で「原子炉搭載艦を首都圏に入れるのは危険だ。〝足の裏〟である佐世保ならよい」という声があがり、佐世保に変更したいきさつがある。

      図3・原潜反対集会

 佐世保では、入港の前年から断続的に反対運動が続いた。9月1日には西日本大集会が鹿子前広場で開かれ(約8万人)、中心部まで延々とデモ隊が行進した。デモの写真は私が住んでいた今福町辺りで、「原潜くるな!」「アンポ反対!」という叫び声が続いていたのを覚えている。

      図2・原潜反対デモ行進

64年8月、米国は「エード・メモアール」という外交文書を発表して「米海軍の原子力艦は安全である」「入港の24時間前には通告する」と約束したのだった。
ところが、米国は「9.11米国同時テロ事件」以降、外交上の約束を破って地元市民に事前通告をせずに入港を繰り返している。

       赤崎岸壁
        (原潜が停泊する赤崎岸壁)

 また、米国の原子炉に係る法律では、「原子炉は民家から500メートル以上離れていなければならない」のに、写真に見るとおり原潜停泊地(赤崎岸壁)の300メートル以内に多くの民家や特老施設がすっぽり入っている。
        避難訓練
        (防災訓練で放射能測定する市職員)

 2002年から佐世保市は、原子力艦の放射能漏れを想定した防災訓練を毎年行っているが、米海軍は「放射能漏れはあり得ない」として訓練への参加を拒否している。だが、02年には「ラ・ホヤ」が停泊中にケーブル火災事故を起こし06年から08年にかけて「ヒューストン」が放射性冷却水漏れ事故を起こしているのだ。
さらに、放射能モニタリングについても重大な「密約」が存在することを、新原昭治氏(核問題研究家)が米国公文書を根拠に指摘している。

          原潜の放射能測定「密約」1
          (長崎新聞08年3月7日付)

 原潜の寄港回数はこれまでに349回(内302回は1990年以降。原子力空母は22回)にのぼるが、諦めることなく原子力艦艇の入港に反対する運動を続けていきたいと思う。

「ベルリンの壁」崩壊から25年

 今月9日は、「ベルリンの壁」が崩壊してちょうど25年。四半世紀前の劇的な映像を鮮明に覚えている。その2年後にはソビエト連邦が倒壊した。当時、いったい誰がこのような歴史的変動を予測しえただろうか?

     壁崩壊の瞬間
     (ベルリンの壁崩壊の瞬間)

 1985年、ゴルバチョフが大統領に就任すると「ペレストロイカ(改革)」を大胆に進めた。これを契機にして東欧諸国で民主化を求める運動が高まった。それは、東ドイツにも大きな影響を与えた。経済停滞と生活苦、秘密警察の監視下で自由を奪われていた市民たちは民主化を求めて起ち上ったのだった。

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     (ベルリンの壁崩壊を喜ぶ東西市民)

 「ベルリンの壁」は、東ドイツから西ドイツへ脱出する市民が後を絶たず、それを防止する目的で東ドイツが1961年に作り出したものだった。壁建設から28年後に東西ドイツの市民らによって劇的な崩壊となった。

 ホルスト氏 ハンス氏

 9日の朝日新聞で、東西統一の証人に聞くという記事が載った。元西独のホルスト氏は「統一まで1年足らず、東独の人々の熱意がそうさせた。ゴルバチョフ大統領は極めて協力的だった。統一はほぼ完成したと信じている」。
 元東独のハンス氏は「東独を悲劇のうちに消滅させないため3段階の統一構想を描いた。四半世紀を経た今も、所得や年金の東西格差など矛盾が噴き出している。統一はまだ道半ば、さらに10年ほど必要だ」と語っている。

      演説するレーガン
      (ベルリンの壁の前で演説するレーガン米大統領)

 さて、いまなお冷戦構造が残る朝鮮半島で南北統一が実現するのに何年を必要とするのだろうか?ドイツみたいに平和的に統一できるのだろうか?

文化の日と秋の叙勲

 きょうは「文化の日」で、「秋の叙勲」が発表された。樹木希林や加山雄三、水島新司らが「旭日小綬章」に選ばれたと報道されている。だが、私はずいぶん以前から「叙勲制度」のあり方に大きな疑問をもってきた。

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 「叙勲」とは何か?大雑把におさらいしてみるとーー勲章には22種類あり、「旭日章」や「瑞宝章」をよく目にする。「旭日章」は国家・公共に功労ある者、「瑞宝章」は社会の様々な分野での功績があった者に授与されるとある。ただし、法的根拠はなく政令で定めるとしている。大体、人間を意図的に「格付け」するなど人権無視も甚だしい。

 「春秋叙勲」は、危険業務従事者や高齢者などの区分があり、外務大臣の推薦により天皇が国事行為として授与するとある。例えば、自衛官や消防職員、警察官などが危険業務従事者として受賞を受けるが、元々「仕事」として働いていただけであって、あえて授与するほどのことではない。

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         (明治天皇の親書と国璽)

 「勲章制度」については、すでに幕末時代に幕府や薩摩藩がパリ博覧会で興味を示しており、明治に入った1875年「叙勲制度」を定めたとある。
 小泉内閣の時に、勲一等から八等までの格付けを「栄典関係政令」の改正によって廃止している。

 ところで、「文化の日」の由来は、「天長節」(1873年)に遡る。明治に入ると天皇誕生日として「明治節」(1927年)となった。戦後、日本政府は11月3日を新憲法公布日として「憲法記念日」としようとしたが、GHQ側が猛反対して「文化の日」となった。ちなみに「憲法記念日」は5月3日となったが、「東京裁判」の開始日である。

 かつて石橋政嗣・社会党委員長は、「旭日章」綬章を拒否したが、こうした経緯を踏まえた行為で立派なものだ。
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今川正美のブログへようこそ!

生年月日 1947年8月7日
住  所 長崎県佐世保市
学  歴 佐世保北高等学校
     卒業(66年)
     佐賀大学農学部農
     学科中退(68年)
職  歴 佐世保地区労書記
       (68年)
     佐世保地区労事務
     局長(94年)
政 治 歴 衆議院議員
     (2000年・1期
      社会民主党)