安倍首相に問う~A級戦犯は「祖国の礎」になったのか。

 今年4月、A級、BC級戦犯として処刑された元日本軍人の追悼法要に、安倍首相が「自民党総裁」名で哀悼メッセージを送っていたとの記事が目についた。「今日の平和と繁栄のため、自らの魂を賭して祖国の礎となられた昭和殉職者の御霊に謹んで哀悼の誠を捧げる」とある。

 送付先は、高野山真言宗の奥の院にある「昭和殉職者法務死追悼碑」の法要だ。碑は、連合国による戦犯処罰を「歴史上世界に例を見ない過酷で報復的裁判」とし、戦犯の名誉回復と追悼を目的に20年前に建立されたという。東条英機元首相ら
A級戦犯14人が含まれている。

            昭和殉難者法務死追悼碑
           (昭和殉職者法務死追悼碑)

 日本は、東京裁判の判決を受け入れ、戦争責任を戦争指導者たるA級戦犯に追わせる形で、国際社会に復帰し戦後の繁栄を築いたのではなかったか。
 国内外に多大な犠牲を生み出し、日本を破滅へと導いた戦争指導者が「祖国の礎」であるとは、いかなる意味なのか?国際社会との約束を反故にし、戦後日本の歩みを否定する何物でもないと思うが、安倍首相の歴史観をぜひ聞かせて欲しいものだ。
 
 
スポンサーサイト

平岡敬・元広島市長の論評に感動した

  「死者の声に耳傾けたい」――敗戦記念日の15日、佐賀新聞に載った平岡敬・元広島市長(87歳)の論評の見出しである。
 長くなるが要点を記してみる。

      平岡敬
      (平岡敬・元広島市長)

――私は学徒動員により北朝鮮・興南の化学工場で働いていた。突然、戦争が終わり、京城へ脱出した。9月末に引き揚げると、郷里広島は、原爆で壊滅していた。これが私の戦争体験である。

     広島原爆ドーム
     (広島の原爆ドーム)

――飢えに苦しみながらも、新しい憲法のもと、平和な世界を夢見て、日本再建に汗を流した。しかし、いま私たちの目の前には、荒涼たる光景が広がっている。
 かつて焦土に生きる日本人の希望であった憲法は、邪魔者扱いである。米国に従属する戦後政治の流れの中で、先の戦争は明確な過ちであったということを認めようとしない人々が権力を握り、非憲法的な手段によって国の行方を大きく変えようとしている。

    安保法制懇

――特定秘密保護法に続く集団的自衛権の行使容認は、自衛隊が米軍と一体となって海外で戦争する道を開いた。ヒロシマ・ナガサキを忘れて原発再稼働を目指し、原発輸出に狂奔する政治には、国民の安全を守る姿勢は見えない。

――戦後がいつの間にか、新たな戦前になってしまった。それはなぜなのか。日本が歴史と向き合うことなく、戦争の責任を追及せず、全てを曖昧にしてきたからではないか。
 過ちを反省せず、現実から目を背けて問題を先送りし、責任を回避する日本政治の体質はフクシマでも明らかになった。

     福島第一原発
     (福島第一原発)

――私は、目先の利潤追求に走り、戦争の悲惨を実感できない人々が、安全保障を論ずる危うさを痛感している。近隣諸国との信頼醸成と相互依存関係の強化が、日本の安全を確かなものにする。軍事力に頼って失敗した過去の歴史から学ぶべきことは、外交力による平和構築である。

      国会議員の靖国参拝
      (靖国神社に参拝する閣僚たち)

――アジア・太平洋戦争での日本人の死者は300万人、アジアの人たちの犠牲は2千万人といわれる。死者一人一人の無念と、生き残った人間の戦争体験こそ「肝要な部分」であり、歴史の土台である。それゆえ、私は自らの体験に固執し、戦争への動きを拒否する。敗戦時に民を見捨てた国の本性を見たからである。

――転機に立つ私たちは、非業の死を遂げた死者の声を聞いて、日本の未来を考えなければならない。巡りくる敗戦の日が、そのことを私たちに問い掛けている。

 戦争体験に基づく平和への揺るぎない信念に、心から感動した。どこぞの総理大臣も爪の垢を煎じて飲んだらどうか。

池澤夏樹「弱者の傍らに身を置く今上天皇」に想う

 私が衆議院議員の時、天皇・皇后両陛下を間近に見る機会があった。2002年、佐世保で「全国豊かな海づくり大会」が開催された時だ。

     33回大会・熊本。歌碑
   (第33回全国豊かな海づくり大会・熊本。歌碑)

 地元選出の国会議員や首長らが同席して、稚魚を海に放出するセレモニーである。天皇が挨拶するのだが、文面は宮内庁の役人が準備する。ところが、このときは「私が子どものころ、『干潟の…』という映画を観て感動しました」と言って、6、7回も干潟の大切さに言及されたのが印象に残った。いかにも生物研究者らしい自らの言葉だった。

 金子原次郎長崎県知事はこの天皇挨拶にすっかり狼狽して、「『諫早干拓』に言及された訳ではありません」と緊急記者会見を開いたのだった。
 私は思わず苦笑しながら、その日のホームページでいきさつに触れつつ、「天皇を身近に感じたご挨拶だった」と感想を書いたら、一部の人から〝天皇擁護〟なのかと批判をいただいたものだった。

     池澤夏樹1
      (池澤夏樹)

 ところで、朝日新聞の批評コラム池澤夏樹の「終わりと始まり」は毎回読んでいるが、8月9日付の天皇観察が興味深かった。長くなるが次のような内容だ。
――「天皇」はずいぶん特異な王権である。天皇の責務は第一に神道の祭祀であり、その次が和歌などの文化の伝承だった。国家の統治ではない。だからこそ、百代を超える皇統が維持できたのだろう。
――やがて維新が起こり、ヨーロッパ近代が生んだ君主制が接ぎ木される。グローバルな戦争の果てに、昭和天皇は史上初めて敗者として異民族の元帥の前に立たされた。

――今上と皇后の両陛下は7月、宮城県のハンセン病療養所「東北新生園」を訪れられた。6月、沖縄の学童疎開船「対馬丸」記念館を訪れられた。昨年10月、水俣に行って患者たちに会われている。東日本大震災については直後から何度となく避難所を訪問して被災者を慰問された。
――憲法のもとで天皇には政治権力はなく、言論という道具を奪われている。しかし、その思いを行動で表すことはできる。
80歳の今上と79歳の皇后が頻繁に、熱心に、日本国中を走り回っておられる。訪れる先の選択にはいかなる原理があるか?

      天皇と皇后

――みな弱者なのだ。責任なきままに不幸な人生を強いられた者たち。何もわからないうちに船に乗せられて見知らぬ内地に運ばれる途中の海で溺れて死んだ800名近い子供たち、日々の糧として魚を食べていて辛い病気になった漁民、津波に襲われて家族と住居を失ったまま支援も薄い被災者。
――今の日本では強者の声ばかりが耳に響く。それにすり寄って利を得ようという連中のふるまいも見苦しい。経済原理だけの視野狭窄に陥った人たちがどんどんことを決めているから、強者はいよいよ強くなり弱者はひたすら惨めになる。

――今上と皇后は、自分たちは日本国憲法が決める範囲内で、徹底して弱者の傍らに身を置く、と行動を通じて表明しておられる。
 これほど自覚的で明快な思想の表現者である天皇をこの国の民が戴いたことはなかった。

 以上は、『古事記』の現代語訳をやり終えた池澤夏樹の感想である。私は、「天皇制」についてはすみやかに廃止すべきだという考えに立つが、一人の人間としての今上天皇と皇后については大いに興味と好感を持っている。また、ご批判をいただきそうだが・・・。

〝現代の浮世絵師〟立原位貫の生き方に感動した

 こんな生き方があるのだろうか。朝日新聞に載っていた〝現代の浮世絵師〟立原位貫(いぬき)の生き様に驚き感動した。紹介記事から引用してみる。

       立原井貫

--東京でプロのジャズサックス奏者だったが辞めて郷里・四日市市に戻り、アルバイト生活。25歳のとき偶然歌川豊国の美人画に魅せられて、「浮世絵」にのめり込む。「江戸の浮世絵というのは、絵師、彫師、摺師の分業制。どれも一生をかけてやる仕事なのに、僕はまったく素人だったから、何の疑いも持たずに全部一人でやり始めてしまった」。
 
       圀芳

 27歳で、江戸末期の絵師・歌川国芳の代表作「相馬の古内裏」の復刻を半年がかりで完成。アルバイトをやめ、浮世絵師として生きることを決意する。
 「本物を再現したい。材料から技術まで、すべてにおいて江戸と同じ物を忠実によみがえらせたい」と思った。

        seigetunotuki2[1]

 「浮世絵をベースにした日本の版画は、和紙を染めるという技法が特徴」。その美しさを再現するためには、化学処理をしていない江戸の紙や絵の具が必要だった。
 立原は、東京・浅草にただ一軒残っていた版木屋で山桜の版木を求めた。コウゾ100%の紙をすいてくれる職人を探して全国を行脚した。

      一刀一絵

 こだわったのが色だ。紅花の「赤」。露草の「青」。布から煮出す「藍」。滋賀県野洲市の藍染め店「紺九」の協力で、藍色を作り出せるまでに20年近い年月がかかった。

 豊国の美人画に出会ってから37年。復刻して浮世絵は100点を超す。2010年に完成させた歌川国貞の代表作「大当狂言」7枚の復刻を、立原は浮世絵復刻の集大成と自負する。

           p3-artist-b-20140606-200x200[1]

 13年前、京都に住居兼工房を構えてからは、オリジナル作品の創作が中心になった。夢枕獏の連載小説「大江戸恐龍伝」の挿絵など、新しい仕事にも挑戦している。
 最新作のびょうぶ絵には、幼い孫ら家族の姿を初めて描いた。もともと浮世絵とは、絵師が暮らす現世の風俗を生き生きと描いた絵だった。

           大江戸恐龍伝

 将来の「安定した生活」など何の保障もないのに、これまでの仕事に見切りをつけて未踏の世界に踏み込んでいった立原位貫。いまや唯一の〝現代の浮世絵師〟の名声をほしいままにする彼の生き様。真似のしようもない。

日本の空母保有と武器輸出を止めるべし!

 日本もいよいよ「空母」を保有する時代を迎えたようだ。防衛省は、新中期防で予定していなかったはずの「強襲揚陸艦」を導入する方針を固め、来年度予算の概算要求に調査費を盛り込むという。強襲揚陸艦は、水陸機動団や水陸両用車、オスプレイやLCAC(エアクッション型揚陸艇)など上陸作戦に使う装備を効率的に搭載できるという。
 ちなみに、現在、佐世保に配備されている米海軍の強襲揚陸艦「ボノム・リシャール」(約41,000トン)は通称〝ヘリ空母〟と呼ばれる。

      強襲揚陸艦ボノム・リシャール2
      (佐世保の米強襲揚陸艦「ボノム・リシャール」)

 冷戦時代、日本が保有できないとされた主な兵器は、弾道ミサイル・戦略爆撃機・空母などで、その理由は「必要最小限の防衛力を超える」からであった。
 例えば、海自は周辺国に脅威を与えないとの考えで、1万トンを超える艦艇保有は控えてきた。ところが、補給艦「ましゅう」(2万5千トン、04年就役)、ヘリ空母型護衛艦「ひゅうが」(1万8千トン、09年就役)、ヘリ空母型護衛艦「いずも」(2万6千トン、15年就役予定)と相次いで2万トンクラスへと飛躍した。

       ヘリ護衛艦「いずも」
       (ヘリ空母型護衛艦「いずも」)

 これらヘリ空母型護衛艦や導入予定の強襲揚陸艦は、補給艦・輸送艦・病院船を兼ね備え、「専守防衛」をはるかに超える
海外派兵仕様の多機能艦である。私が、こうした問題を国会で質した折、防衛省は「攻撃型ではない」と釈明したが、垂直離着陸機(V/STOL)の導入は目前であろう。

       ミストラル級強襲揚陸艦「ウラジオストク」
       (ロシアに売却される強襲揚陸艦「ウラジオストク」)

 日本政府はフランス政府に対して、ロシアへの強襲揚陸艦の売却や中国へのヘリ着艦装置の輸出などを慎むように求めた。フランスは、世界で5本の指に入る武器輸出国で、紛争が絶えない中東に多くのミラージュ戦闘機を売り込んできた。そのフランスと日本は、新世代ヘリや潜水艦などの武器共同開発を進めているのだ。
 「武器輸出三原則」を堅持しているなら説得力もあるが、解禁したいまとなっては他国に武器輸出を控えろと言うのは虫が良すぎるというものだ。
 

「花子とアン」と波乱に満ちた柳原白蓮の生涯

 今月1日放送の「歴史列伝~柳原白蓮」(BS-TBS)が実に面白かった。
NHK朝ドラの「花子とアン」は視聴率も高く、その中で仲間由紀子が演じている「葉山蓮子」が白蓮である。
 白蓮の一生はとても波乱に満ちていて、主人公を蓮子にしたほうがよほど面白いほどだ。

          仲間由紀恵
        (葉山蓮子こと柳原白蓮を演じる仲間由紀恵)

 白蓮は、明治18年、父・柳原前光伯爵と母・奥津りょう(前光の妾)の間に東京で生まれ、「燁子」と名付けられる。大正天皇の生母・柳原愛子の姪で、天皇の従妹にあたる。
 9歳で子爵・北小路随光(よりみつ)の養女となり、和歌の手ほどきを受ける。華族令や家範という管理下で随光の子・資武(すけたけ)と不本意な結婚を強いられ、15歳で出産した男子を残す条件で離婚。

         伊藤伝右衛門と
        (白蓮と伊藤伝右衛門)

 実家に戻ってからも不遇な生活だったが、やがて東洋英和女学校に編入学し、村岡花子とも親交を深める。同校を卒業した年、九州の炭鉱王・伊藤伝右衛門と見合い結婚することとなる。親子ほどの年齢差や伊藤家の複雑な家族関係など歪んだ結婚生活の懊脳・孤独をひたすら短歌に託し、竹柏会の師・佐佐木信綱の勧めで雅号「白蓮」を名乗る事となる。

         家族四人
        (宮崎龍介と二人の子ども)

 1919年(大正8年)、白蓮は戯曲「指鬘外道」(しまんげどう)を雑誌『解放』に発表し、これがきっかけで同誌主筆の宮崎龍介との運命的出会いとなった。龍介は宮崎滔天(孫文を支援した)の長男で、東京帝大の在籍しながら労働運動に打ち込んでいた。
 2年後、京都での逢瀬で白蓮は龍介の子を身ごもった。「姦通罪」のあったこの時代に、道ならぬ恋は命がけであった。白蓮は伊藤家を出る覚悟を決め、龍介は朝日新聞記者の赤松克麿(赤松広隆・現衆議院議員の祖父)らと相談して、白蓮出奔の計画を練った。

         晩年の白蓮
          (晩年の白蓮)

 関東大震災(大正12年)の頃、駆け落ち騒動の最中に生まれた長男・香織と共に宮崎家の人となった白蓮は経済的困窮に直面するが、小説・歌集・講演などで家計を支えた。
 この頃、吉原遊郭から脱出した花魁の森光子が宮崎家に助けを求めている。娼妓や労働運動関係者、中国人留学生らを食客として世話をした。

         飯塚市・白蓮の歌碑
         (飯塚市・白蓮の歌碑)

 龍介は昭和12年、盧溝橋事件で緊迫する中国との和平工作の特使として、近衛文麿首相の依頼で上海へ派遣されるが失敗。長男・香織は学徒出陣で串木野基地(鹿児島)で爆撃を受けて戦死する。
 戦後、NHKラジオで子どもの死の悲しみと平和を訴える気持ちを語り、「悲母の会」を結成して全国を行脚、世界連邦運動婦人部へ発展させた。
 1961年、緑内障で両眼の視力を失う。龍介の介護と娘夫婦に見守られ、歌を詠みつつ暮らした穏やかな晩年であった。67年2月、81歳で死去。遺骨は香織と共に顕鏡寺(相模原市石老山)に納められた。

 〝大正三美人〟あるときは〝筑紫の女王〟と称され、男尊女卑が当たり前の時代にあって、幾多の困難を乗り越えて自らの信念と生きざまを貫いた美貌の歌人・柳原白蓮に感激した
最新記事
カレンダー
07 | 2014/08 | 09
- - - - - 1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31 - - - - - -
月別アーカイブ
カテゴリ
プロフィール

FC2USER537587ATX

Author:FC2USER537587ATX
今川正美のブログへようこそ!

生年月日 1947年8月7日
住  所 長崎県佐世保市
学  歴 佐世保北高等学校
     卒業(66年)
     佐賀大学農学部農
     学科中退(68年)
職  歴 佐世保地区労書記
       (68年)
     佐世保地区労事務
     局長(94年)
政 治 歴 衆議院議員
     (2000年・1期
      社会民主党)