「秩父事件」と菅原文太

 「秩父困民党事件」のことは、詳しくは知らなかった。
 朝日新聞のシリーズ「みちものがたり」で、『俳優・菅原文太と秩父事件』という記事に目がとまった。

   SugawaraBunta-02[1]

            sugahara-bunta[1]

 菅原文太と言えば、映画「仁義なき戦い」や「トラック野郎」シリーズに主演する東映の看板スターというイメージが強い。
 その菅原さんと「秩父事件」に接点ができたのは、1980年放映のNHK大河ドラマ「獅子の時代」にさかのぼるらしい。以下、朝日新聞の記事を追ってみたい。

     d0115409_2255715[1]

 同ドラマは山田太一さんのオリジナル脚本で、主人公は会津藩と薩摩藩の架空の下級武士二人。偉人ではなく、民衆の側から幕末・明治の激動の時代の光と影を浮き彫りにした。
 ドラマの終盤で菅原さん演じる会津藩士・平沼銑次は秩父事件に身を投じる。「自由自治元年」の旗を掲げた銑次が一人で鎮台兵に斬り込んでいく強烈なラストシーン。
 
     20070808_1[1]

 それから31年後の2011年12月、菅原さんが東馬流集落(長野県)のはずれにある「秩父暴徒戦死者之墓」を訪れた。翌年1月にNHK・Eテレで放送されたシリーズ「日本人は何を考えてきたのか」の第2回「自由民権、東北で始まる」のロケ現場の下見のためだ。
 菅原さんは出演にあたって注文した。「自由民権を今の問題として考えたい」「東日本大震災の被災地に行きたい」、そして「ぜひ秩父事件もとりあげたい」。

 菅原さんは墓石をそっとなでた。その場面に、本人のナレーションがかぶせられた。「歴史の中で長く『暴徒』とされた困民党の人々こそ、自由民権の志を最後まで貫いた志士たちではなかったか」。

     c76fdf3d331bbe18fda5b1638c2266dd[1]

 「獅子の時代」放送翌年の1981年は「自由民権百年」。同年11月、横浜市で開かれた「自由民権百年全国集会」には延べ7千人が参加した。出席した菅原さんは、日本が「どこからか戦争の足音が聞こえないでもない」状況だとして「銑次が現代に生き続けて民衆のために戦っているとすれば演じがいがある」と発言。「銑次はゲバラじゃないかと考えながら演じていた」とも語っている。

     maxresdefault[1]

 権力に抗い、志半ばで倒れた者たちへの熱い共感。俳優・菅原文太の原点はどこにあったのか。
 仙台市で生まれ、戦争中は一迫町(現・栗原市)で過ごした。父・狭間二郎は戦前に一時期、プロレタリア詩人として活躍、戦後は画家となった。底辺労働者たちの苛酷な境遇を憤る父の詩には、菅原さんの反骨精神へと通じるものがある。
 仙台一高の1年後輩で、終生の友だった憲法学者の樋口陽一さんは、「権勢や流行にあらがって自分の信じるところをゆく。文ちゃんは、借り物ではない自分の言葉をもっていた」。
 約250本の出演映画で演じたほとんどが社会の底辺や裏で生きる人たちだった。

     9496202ae82f70ee6a8ec1a5bdb5cd68-640x444[1]

 晩年、戦争を知る世代として、身を削るように反戦、護憲、反原発、沖縄の基地問題について訴え続け、各地を飛び回る姿は、銑次そのものだった。
2014年11月1日には、沖縄県知事選で辺野古基地建設に反対する候補の応援に駆け付けた。対立陣営に向けて「弾はまだ残っとるがよ」と、「仁義なきー」の決めゼリフを放ち、地響きのような歓声がわいた。

     a0226578_1183280[1]

 困民党が終わりを迎えた11月9日、菅原さんの姿は秩父市にあった。「秩父事件130周年」の記念講演のためだった。
「今、日本はおかしくなっていますね」、「なぜ怒りの声があがらないのか」。「秩父事件をみると、かつての日本では、一人一人の力は弱くても、権力の理不尽なことには団結して抵抗する底力があった」。

        511MjOSHEoL._SY291_BO1,204,203,200_QL40_[1]

 なぜ長年、秩父事件と困民党に「愛着」をもち続けてきたのか。――「『天朝様に逆らうから助っ人しろ!』と悲痛な覚悟で官憲に突っ込んでいった若者がいたと聞いて感銘深くてね。天皇制が絶対の時代に、そんな日本人もいたんだと」。

     screenshot.287[1]

            20141201220903972[1]

 菅原さんが亡くなったのは11月28日。秩父での講演から19日後のことだった。
 あまりにも惜しい人がこの世を去ってしまった。あらためて心よりご冥福をお祈りいたします。  合掌

スポンサーサイト

皇室とハンセン病

  先日、「天皇主義者」について書いた。
 天皇は、自らの務めは鎮魂と慰藉の旅だと解釈され、実際、ハンセン病療養所や水俣病患者への訪問、さらにサイパン、ペリリューの慰問に出かけられている。

     ペリリュー島
     (ペリリュー島で慰霊)

 ところで、先月の毎日新聞の連載「考・皇室~社会を映す」(5月29日付)で、皇室とハンセン病の関係について解説してあった。その要点は次のとおりだ。
――2005年5月、天皇と共にハンセン病療養所「長島愛生園」を訪れた美智子皇后。背景には、歴代皇后とハンセン病の縁があるという。
 古くは奈良時代の光明皇后、明治の昭憲皇太后、そして大正期の貞明皇后はとりわけ熱心だった。

――その背後には国策が透けて見える。政府は30年に「長島愛生園」を開き、翌31年には「癩予防法」を成立させた。
 満洲事変が起きたのは31年。政府は健康な兵士の確保のためハンセン病対策を重視した。天皇を頂点とする男性皇族が軍人になったのに対し、皇后ら女性皇族は慈恵を担った。
 政府は「救らい事業」のけん引役を皇后に求めた。
 「プロパガンダの一つとして、光明皇后の先例にもあるから(貞明)皇后が哀れなるらい患者に大御心をわずらわすということにされたらいい」(次田大三郎・内務省地方局長)というわけだ。

     駿河療養所
     (駿河療養所を慰問)

――戦死者遺族の救済などのため創設された「愛国婦人会」(01年)、39年に設立された「結核予防会」は、いずれも女性皇族を総裁に迎えた。
 「行政の支援が届かない人ほど皇室の慈恵は響きやすかった」(片野真佐子・大阪商大教授)と言う。当時、貧困対策は後回しにされた。それを補ったのが、天皇という権威に裏付けられた皇后の慈恵という構図だった。

     東北新生園
     (東北新生園を慰問)

――自民党改憲草案は天皇を元首と位置付ける。「安倍政権は天皇の権威を強化し、上からの慈恵も復活させたいのではないか」、と遠藤興一・明治学院大名誉教授は話す。
 ハンセン病療養所への隔離政策を違憲とした熊本地裁判決から4年後、厚労省の第三者機関「ハンセン病問題に関する検証会議」は、貞明皇后とハンセン病の関わりに触れ「患者は皇室の権威を借りて排除された事実も指摘しなければならない」との報告書を提出した。
 同報告書は、癩予防協会を引き継いだ藤楓協会の役割について「皇族の『仁慈』を全面的に出すことにより、人権意識に目覚め隔離政策に反対する患者を抑え、あくまでも同情される存在であり続けさせることである」と指弾した。

 「母子愛育会」、「結核予防会」、「日本赤十字社」、「東京慈恵会」など、今も女性皇族は公務に就いている。
 しかし、政府は女性皇族が結婚後も皇室に残る「女性宮家」の創設に消極的だ。

     南阿蘇訪問の天皇
     (南阿蘇訪問の天皇・皇后)

 ひたすら社会的に弱い立場の人々に沿い続ける、という単純なものではなかったのか。
 しかしそれでも、福島や熊本などの被災地をひんぱんに訪れては、ひざまづいて被災者の声を聞き慰問される姿に胸をうたれる。

ネット依存症とSNSの時代

 松飾などを片付け「七草がゆ」をいただいて、お正月に一区切りした。
 それにしても、年末年始のTV番組の面白くないこと。ニュースはもっぱら、トランプ新米大統領、朴槿恵韓国大統領の弾劾、〝小池劇場〟のあれこれなどの繰り返しだ。

 私の日常生活も、まったく単調で退屈この上ない。毎朝、新聞記事の切り抜きとパソコン保存、ブログにフェイスブックといったことの繰り返しで、パソコンから離れない。
・・・たまたま、朝日新聞に「危険、若者のネット依存」(1/7)、「SNSの時代、格闘は続く」(1/9)という記事が目にとまった。

     img668.jpg

 「インターネット依存」――厚労省の中高生のネット依存度調査(12年度)では、中学生の6%、高校生の9・4%が該当し、全国で約52万人と推計した。
 この問題に詳しい医師の話しでは、若者のネット依存が顕在化したのは15年ほど前から。低年齢ほど人格形成が未成熟で依存に陥りやすいという。

 どうすれば防げるのか。――専門医によると、ネットでゲームができる環境の与えっぱなしをやめ、利用制限するルールを家庭で作るのが有効。趣味や学業、部活などに取り組むように保護者や周囲が仕向ける。
 子どもがネットに逃避する背景には、家族関係のゆがみがあることが多く、特に父親の家庭への関与が薄いケースが目立つという。

     img667.jpg

 一方、SNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)が本格化するのは1990年代に入ってからのようだ。
 紀元105年の紙、15世紀の活版印刷の発明。そして新聞、ラジオ、テレビ、ネットの登場。技術の発展に伴い、人類が生む情報量は増え続けてきた、と言われる。実際、掲載した図を見ると驚くべき勢いだ。

 1950年代半ば、評論家の大宅壮一が「家庭の茶の間に氾濫しては一億総白痴化になる」と発言して流行語になった。新しいメディアが登場するたびに、悪影響を心配する声も出た。「自分で選択し判断できる『自律した人間』が近代西洋社会の理想だった。それが難しくなりつつある」と門林岳史・関西大学准教授は指摘する。
 いずれにしても、難しい時代を迎えつつある。

路線廃止、無人駅化で地方の疲弊が進む

 国鉄の分割・民営化からやがて30年。全国的に「不採算の路線」は廃止されて、第三セクターやバスに切り替えられた。駅の無人化なども進み、お年寄りや高校生が苦労している。
 とくに、JR北海道は全路線の約半分にあたる10路線13区間は「単独で維持できない」と発表した。
苦境のJRは自治体に支援を求めるが、財政難に喘ぐ自治体にその余裕はない。

    廃止路線の推移
    (図:朝日新聞 11/19付)

 佐世保では、戦争に欠かせない石炭を県北地域の炭鉱から輸送するため、路線が佐世保まで延伸されたのだった。
国鉄時代、線路には蒸気機関車が黒煙をあげて走り、多くの鉄道マニアがカメラを構えるのどかな光景が見られたものだった。

     3ce9d601[1]

 国鉄民営化後、佐世保では松浦鉄道(MR)が運行しているが、青息吐息の状態だ。
 そもそも当時、国鉄の赤字の原因は「戦地から引き揚げてきた労働者」を大挙雇い入れたからだ。
 ところが、中曽根政権は「赤字解消」を理由に国鉄を分割・民営化した。その後、中曽根は「実は、国鉄労組を潰すためだった」と本音を吐露したのだった。

     Train_of_Matsuura_Railway_bounding_for_Haiki_Station_stopping_at_Sasebo_Station_(JR)[1]

 このような状況下、赤字覚悟で新幹線を地方にもってくるのは、もってのほかだ。
長崎の「フリーゲージ」方式は実験段階からうまくいかず、仮に運行できたにしても遥かに先にずれること必至だ。ところが、せっかちに新幹線用の新駅建設を進める自治体や財界などは「フル規格」路線を求める有様だ。国も自治体も借金漬けなのに、莫大な建設費用はどうするのか?

     imgConstFgauge02[1]

 いったい、この国はどうなっているんだろう?!

〝異色の皇族〟三笠宮崇仁さまのご逝去に思う

  昭和天皇の末弟、三笠宮崇仁さまが27日、亡くなられた。
 皇族のことは不勉強でよく知らなかったが、三笠宮(以下、敬称略)は日中戦争の現地で日本軍の行動を厳しく批判し、また戦後は「建国記念日」制定に強く反対された異色の皇族であったことを知った。
 新聞や週刊誌、TVなどのメディアはいずれも、そうした〝リベラルな皇族〟ぶりを詳しく報道している。――その要点を少し書いておきたい。

     img_12[1]

――まず、戦争をどうとらえていたか。
 三笠宮は、日中戦争下の昭和18年(1943年)「支那派遣軍総司令部」の参謀として、南京に駐在。そこで、将校に対して書かれた冊子が、「支那事変ニ対スル日本人トシテノ内省」。当時は言論弾圧下なので、皇族である自分があえて発言すると書いている。
 「支那派遣軍は日中戦争の本質の認識や、解決への努力が足りない」。「満州事変・支那事変の主な原因と責任は日本現地軍にある」。「日本は戦闘に勝っても戦争に勝ったとはいえない。蒋介石を抗日に追いやったのは主に日本側に責任がある」。「日本軍の略奪、強姦、良民の殺傷、放火等」と次々に指摘し、戦争中から満州事変以降の日本の軍事行動に対する強い批判を、一貫して持っていた。(元宮内庁参与である三谷太一郎・東大名誉教授の話しより)

     三笠宮、内モンゴルで

――戦争終結、戦争責任、新憲法について。
 1945年8月12日、昭和天皇が戦争終結への協力を求めた皇族会議の席で、三笠宮は陸軍の反省を強く要望。その後、阿南惟幾陸軍大臣が宮さまに降伏の翻意を懇願したが、「陸軍は満州事変以来大御心にそわない行動ばかりしてきた」と応じなかった。
 1946年2月27日の枢密院本会議で天皇退位の必要を示唆する発言をした。
同年6月8日の本会議でも、「満州事変以来日本の表裏、言行不一致の侵略的行動については全世界の人々を極度に不安ならしめ、かつ全世界の信頼を失っていることは大東亜戦争で日本がまったく孤立したことで明瞭である。従って将来国際関係の仲間入りをするためには、日本は真に平和を愛し絶対に侵略を行わないという表裏一致した誠心のこもった言動をしてもって世界の信頼を回復せねばならない。憲法に明記することは確かにその第一歩である」。

     img110.jpg
     (朝日新聞 10/28付)

――「紀元節」復活の動きについて。
 2月11日が「神武天皇即位の日」とする紀元節復活運動に対して、三笠宮は歴史学者の立場から学者の会合や論文で反対を表明した。
 「歴史研究者として、架空の年代を国の権威をもって国民におしつけるような企てに対してあくまで反対」と表明。「昭和15年に紀元2600年の盛大な祝典を行った日本は、翌年には無謀な太平洋戦争に突入した。すなわち、架空な歴史を信じた人たちは、また勝算なき戦争を始めた人たちでもあったのである」(文芸春秋59年1月号)。

――「生前退位」と皇室典範について。
 三笠宮とじっくり会話を交わし、「昭和史最後の証人」だと述べるノンフィクション作家・保阪正康氏が(奥平康弘著「『萬世一系』の研究」を参考にしつつ)「サンデー毎日」で短期連載中だ。少し引用しておきたい。

 秩父宮、高松宮、三笠宮の3人の弟宮は、敗戦後の日本社会で、皇室の民主化に率先して動いていた。とくに三笠宮が積極的で、新しい皇室典範案に自らの考えを示し、「生前退位」を訴えていることがわかった。
 新しい皇室典範案である「新憲法と皇室典範改正法案要綱(案)」は、枢密院の審査にかけられ顧問官たちに配布されたが、黙殺されたようだ。

 三笠宮は、「大日本帝国憲法と旧皇室典範がセットになって、大日本帝国下の天皇制をつくりあげてきたのだが、これからは新しい憲法とそれにふさわしい皇室典範がセットになる形を採るべき」と訴えている。
 そして、新しい憲法のもとで皇室典範の改正を行うとするならば、せめて7点については憲法の精神を汲みとらなければならないとして、――国民主権の原則、天皇における国政的権能の欠如、国事行為における内閣の助言と承認、法のもとの平等、華族性の廃止、婚姻の自由と婚姻関係における平等、皇室財産の国有化を挙げている。

     赤坂御用地を散策する三笠宮ご夫婦
     (15年。赤坂御用地を散策する三笠宮ご夫婦)

 「譲位の問題」について三笠宮は、新しい皇室典範に「退位の自由」がないことに強い疑問を呈している。いわば終身在位はきわめて残酷な制度であり、憲法18条に違反しているのではないかとの見方である。
 奥平康弘・東大名誉教授は、「吉田茂首相の皇室典範案の提案理由と保守的な憲法学者らの主張は、天皇という個人的存在が憲法の設定した制度のために犠牲になることを当然の前提にしている点で共通である」、と述べている。
 こうした(奥平の)見方の原点は、三笠宮の視点が出発点になっているのである。

     img309.jpg
     (95年、品川区フォークダンス協会の催しで踊る三笠宮)

 なんともすごい皇族がいたものだ。長男の故・寛仁の著書によると、「大学への通勤は、車でなく山手線で。学生食堂ではうどんを食べる。勉強好きで、家族とスキーに行ってもひとりで原書を開く」。
 また、フォークダンスや社交ダンスに親しみ、日本レクレーション協会の名誉総裁などを務めた。

     孫娘の承子・典子・絢子
     (14年8月 軽井沢。孫娘の高円宮承子さん・典子さん・絢子さん)

 軍部などにまつりあげられた皇室が戦争の原動力になる。その危うさを誰よりも知っていた現代史の証人がまた一人去った。
 心よりご冥福をお祈りしたい。  合掌
最新記事
カレンダー
06 | 2017/07 | 08
- - - - - - 1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31 - - - - -
月別アーカイブ
カテゴリ
プロフィール

FC2USER537587ATX

Author:FC2USER537587ATX
今川正美のブログへようこそ!

生年月日 1947年8月7日
住  所 長崎県佐世保市
学  歴 佐世保北高等学校
     卒業(66年)
     佐賀大学農学部農
     学科中退(68年)
職  歴 佐世保地区労書記
       (68年)
     佐世保地区労事務
     局長(94年)
政 治 歴 衆議院議員
     (2000年・1期
      社会民主党)